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今日(2011/07/24)の朝日新聞の書評欄に載っていた、武田徹『原発報道とメディア』(講談社現代新書)という先月刊行されたばかりの本が面白そうだったので、いろいろと慌ただしいなかではあるのですが、早速読んでみました。

わたしはこの方の著作を読むのは初めてで、アマゾンなどを見るかぎりでは賛否両論のようですが、原発推進/原発反対という観念的な白黒二分法の相互不信が、かえって相互依存的に原発リスクを高めてきた(しいまなお高めている)という趣旨は、共有できます。

著者によれば、これまでの時点で原発をめぐって本当に選ぶべき選択肢は「推進派は反対派の主張に耳を傾け、従来の原発=絶対安全のプロパガンダを一旦取り下げて、より安全で安心できる原子力利用の道がないか、もう一度検証しなおす。一方で、反対派も原子力利用絶対反対の姿勢を緩め、リスクの総量を減らす選択を国や電力会社が取ることを認める。こうして両者が、互いに僅かであれ相互に信頼することで開かれる選択可能幅の中で、リスクの総量を最小化する選択肢を選んでいく」(33頁)というものでした。

ですが現実にはこうなることはなく、白か黒かという二者択一しか考えられなかったことが、今回の一連の不幸な事態に少なからずつながっているように思えます。ネット上の各種ソーシャル・メディアでも、価値観を同じくする人たちが仲間内で自己正当化し、意見を異にする人を非難するばかりで、それがかえって現実を前に進ませず、断絶の相互強化につながっていたように思います。普段は「対話」を強調しているような人たちもそうなのです。

先日このブログで、東日本大震災と原発問題をめぐる大学界・言論界の動きに絡めて、ブルデューの『ホモ・アカデミクス』所収の「大学――裸の王様たち」から抜き書きをしましたが、ちょうどブルデューが指摘しているのと同じことです。

原発推進と原発反対のいずれかを思考停止的に唱えているかぎり、それは処世術的なハビトゥスにすぎません。こうして敵同士が、おたがいの存在意義のために相互依存的にグルになってしまい、そのどちらにも与していない一般の人たちを結果的に疎外していく(あるいは煽る)ことになります。著者はこうも述べています。

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たとえば原発事故をきっかけに脱原発の声が高まった。その時に福島の原発立地の住民のことをいかに考えていたか。おそらく立地住民にとっても原発などないほうがいい。脱原発は疑う必要もなく「公共的な善」なのだと脱原発論陣の人たちは言いたいだろう。
 しかし本当にそれは一切の躊躇なしに断言できる種のことなのか。
 立地住民にとっても原発などないほうがいいのは何十年も前から真理だった。しかし、原発なしには生活ができなくなっている。それが現実だ。
 脱原発を進めるのなら、特に廃炉が予定されている福島第一原発周辺では、雇用確保や生活保障などの措置がなければ、立地住民は被災、避難に続いて生活再建の困難という不幸を強いられる。
 ここでローティが述べていた「罪なき人を助ける公共的善行を行うために、多少の犠牲はやむをえない」と考える発想、あるいは、そうした犠牲が出ていることにすら気づかない残酷さがうかがえるとは言えないか。(199-200頁)
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 また、

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 反原発の文脈において、原発労働者の被爆問題は、それほど危険な仕事なのだから原発は止めるべきだという結論に直結してしまう。反原発運動側からすれば「汚れた」原発で働くこと自体が問題なのであり、そんな労働に就く人がいなくなれば原発は止められるのにそうならないことを嫌悪する構図すらできあがる。
 そうした状況の中、原子力関係の仕事に就く人たちは、極論すれば、反原発運動をものともしない強い自覚の持ち主か、反原発運動の詳細について与り知らない人に二分されることになってゆく。
 無知のままに仕事に臨む人の場合は、具体的に危険の内容について知ると恐怖を覚える場合があるので、雇用者の側もそれを恐れてどうしても知識を与えることに二の足を踏むようになる。労働者に向けて開催される技術講習会では、眠気に襲われて眠ってしまう労働者を起こすことがないと聞いたことがある。
 故人に鞭打つつもりはまったくなく、あくまでもその犠牲を無駄にしたくないために指摘するのだが、臨界とは何かを知らずに働き、バケツでの作業に不審を覚えなかった二人は、まさにそうした「寝た子は起こさない」構図の中で仕事に臨んでいた労働者だったのではないか。
 その意味で、この事故に対しては反原発運動も決して無関係ではありえなかった。もしも反対派が理想とするように即座に日本の原子力利用を停止させられるのであれば、確かに犠牲は出なかっただろう。だがその仮定は現実的ではなく、理想を追うだけの運動は「ごっこ」の域を出まい。全面的かつ即時の原子力依存の停止が現実には望めないものである以上、反対派は事故で犠牲になりかねない人たちの安全確保を視野に入れた現実的戦略を採るべきだったのだ。
 そうした戦略が採用されなかった背景に、事故が起きれば原発は止まるだろうとむしろ事故を期待してしまう心情がなかったと言い切れるだろうか。そこにもまた、自分たちの正義の追究のために、ローティの救済のために犠牲が出ることは仕方がないと切り捨てる残酷な姿勢があったとは言えまいか。(226-228頁)
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 はからずも先月、東日本大震災からちょうど3ヶ月がたった日に某大学でおこなわれた反原発ティーチインにおいて、福島県出身のわたしのかつての教え子が話をする機会がありました。彼は、いまなお苦しんでいる被災地の人びとをほとんど無視するかたちで反原発運動が展開されていることに対する憤りを、熱っぽく、しかし理路整然と語ってくれました。反原発デモを終えた直後に彼の話を聞いた参加者たちは、冷や水を浴びせられたように、静まりかえっていました。当人としてはそれでもいろいろ不満は残ったそうですが、いずれにせよ、思うに原発推進だけでなく原発反対も、それだけでは大都市の第三者的な論理であり、地方を切り捨てるという前提で初めて成立しているのではないでしょうか。
 わたし自身も「原発銀座」と呼ばれる県の出身です。とりわけ冷戦期、どこかの国がミサイル一発撃ってくればそれでおしまいになるということは、子どものころから自分もふくめて周囲の同級生たちはみな自覚的でした(核兵器の脅威とか言いながら冷戦下で原発を造る意味が不明でした。相手国に核兵器はいらなくなるのですから)。また何よりも、こうしたありがたくない「銀座」的な原発の賑わいが、大都市圏に対して従属せざるをえない地方の悲哀に起因することは、子どもの目にも明々白々でした(ややこしいことに県内格差もあるのですが)。こんなわけでわたしは、原発の林立状況には苛立ちを隠せませんでしたし、もし原発を廃止できないのであればいっそそれらの原発を盾に日本から独立すべきだと、小学生時代から半ば本気、半ば皮肉で言っていたくらいです。

 わたしとしては、原発問題は理念と価値の争いではなく、マックス・ヴェーバーが平和への信頼を取り戻すべく第一次大戦後の戦後処理でしようとしたように、現実主義的にそして「ザッハリッヒ(sachlich)」に解決することを強く望みます。たとえ長期戦を覚悟してでも、それこそがまずはいまの二分法的に膠着した状況を打ち破る、唯一のありうる道なのではないでしょうか。そして、左右両派の飯の種としてではなく、そもそも原発が地方にばかり立地しているという社会構造のゆがみをどうするかといった点から、考え直してほしいと願うばかりです。心情倫理的な泥仕合は、やりたければそのあとでも遅くありません。

 参考までに、戦後処理でのヴェーバーの姿勢について次の著作を掲げておきます。
 牧野雅彦,2009,『ヴェルサイユ条約――マックス・ウェーバーとドイツの講和』中公新書.



  
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