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パラパラとマックス・ヴェーバーの本を見返していたら、
ある文章に線が引かれているのが目に入りました。

……今日の流行や作家熱は、専門家を無視するか、あるいは、「直観的に捉える人びと」の下働きに格下げしたりすることができるように考えがちである。もちろん、ほとんどすべての学問が、なんらかの、いや、しばしばきわめて貴重な観点をディレッタントたちに負っている。けれども、ディレッタンティズムが学問の原理となっては、もはやおしまいであろう。「直観的に捉えること」を願う人びとは、映画館へでも行くがよい。そういう人びとにはまた文学の形式でも、この問題領域について、今日きわめて多くのものが提供されているはずである。ともかく、そういった考え方ほど、厳密に経験的な研究たることを意図する、醒めきった論証的叙述と縁遠いものはない。

               マックス・ヴェーバー『宗教社会学論選』(大塚・生松訳)

あらためて、今も昔も変わらないんだな、という気がします。
たぶん以前に読んだときもそう思って線を引いたのでしょう。

わたしが大学生くらいのころ、この界隈の著作や論文には、文章を飾ることに一生懸命で、一見すると何か深遠なことを言おうとしているように見えるが、冷静に考えてみるとじつは何を言っているのか、そもそもなぜそんなことを言い切れるのか、だいたいほんとうに学術的な価値があるのかさえ分からない、といった手合いのものを見かけることが、ままありました。
しかもこの手のものは、青年期にありがちな自意識過剰をそのままアイデンティティにして、苦悩を装うことに自己陶酔してしまった永遠の思春期のような話にまで及んでいることもあり、人生論としてすら深みがなく、読まされているこちらが気恥ずかしくなってくることもありました。

最近でこそこの手のものはさすがに少なくはなりましたが、まだときおり見かけます。
ですがいずれにせよ、いまになってあらためてはっきりと思うのは、人生に悩んだ結果として哲学や思想や社会学の研究をする、といった類はディレッタンティズムであり、本当にザッへに仕えている人であれば、その逆、つまり、研究している結果として深く悩むものだ、ということです。

こうした違いは、意外にうわべからは分からないこともありますが、その人のおこなっている仕事の文字どおりの真価をはかるうえでは、かなり本質的なポイントであるように思っています。


  
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