現象学の祖であるエドムント・フッサールが、『デカルト的省察』の序論で当時の哲学の状況を憂えている部分があるのですが、そのうちの「哲学」という単語を「社会学」に置き換えてみると、そのままズバリ、いまの社会学の現状を表しているようで面白いです。ちょっと長いですが試してみましょう(浜渦辰二訳を使用)。

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現代の社会学は分裂状態にあり、途方に暮れてせかせか動き回っているということについて、考えてみなければならない。……今日私たちが持っているのは、統一をもった生き生きとした社会学ではなく、際限なく広がり、ほとんど連関のなくなってしまった社会学文献の山である。私たちが目にしているのは、相反する理論が真剣に対決しながら、それでもこの対立においてそれらの内的な連関が示され、根本的確信のうちに共通性が示され、真の社会学への惑わされることのない信頼が現れる、という事態ではない。真剣にともに社会学し、互いのために社会学するのではなく、見せかけの報告と見せかけの批判の応酬でしかない。そこには、真剣な協働作業と客観的に通用する成果を目指すという精神をもった、責任感ある相互的な研究というものがまったく見られない。客観的に通用するとは、相互批判によって精錬され、どんな批判にも耐えられるような成果のことにほかならない。しかしながら、このように社会学者の数だけ多くの社会学があるなかで、本当の研究、本当の協働作業はどのようにして可能であろうか。なるほど、今でも多くの社会学の会議が開催されている。そこには社会学者達は集まるが、残念ながら社会学は集まらない。彼らには、それぞれが互いのためにあり、互いに働きかけあうことができるような、精神的な空間の統一が欠けている。個々の「学派」や「潮流」の内部では、事態はまだましなのかもしれないが、彼らの孤立したあり方や、社会学の全体的状況に関しては、本質的には、私がいま特徴づけたような状態にとどまっているのだ。

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社会学者の数だけ社会学があるのは問題ではありません。それは社会学が、ひとつの社会システムとして複雑化し進化してきた証だと考えれば、肯定的に捉えられるべきでしょう。しかしだからこそ、複雑化した社会学という学科の統一性を確保し、別々の領域の社会学者たちもたがいに真に議論しあえるための共有すべき枠組がいかなるものかを検討することが、以前にも増して必要だと感じます。

集うべきは、社会学者ではなく、社会学なのです。



  
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