FC2ブログ
  
久しぶりに、大塚久雄『国民経済』(講談社学術文庫)をパラパラと見返したのですが、末尾の中村勝巳「解題」に、大塚の「創造の過程と成果」という1970年の学部学生・大学院生・若手研究者向けの講演記録(『著作集』第12巻所収)から次のような引用がありました。感ずるところがあったので、書き留めておきたいと思います。


すなわち学問的創造の「そうした苦しみはそもそも万人と分かちあえるような性質のものではないのです。つまり、創造する人間は十字架の人であるほかはないと思います。自分が苦しんで、そして、その成果を人々が享受する、そう言う一面を学問における創造もまたもっている、と思うのです」。

「ヴェーバーが、カリスマという新しい、画期的な着想を獲得するその背景には、その不可欠な要素として彼の大変な苦しみがあった、ということはまず間違いないところでしょう。しかし、いまわれわれは、自分はそういう苦しみを経験することなしに、その理論を享受している」。

「彼が苦しみに耐えに耐えて作りだしたその成果は、人々の目にはしばしばなんでもない当り前のこととなってしまうのです。ですから、何だ、当り前のことじゃないかという批評はしばしば、実質的には、大きな讃辞ともなっている、ということも忘れるべきではないと思います」。


みなさんどうでしょうか。
たしかに学問をやっていると、ある学問的成果(それが公刊されているものであれ未公刊のものであれ)に対して「当たり前のことじゃないか」という批評を、ときどき耳にします。これがじつは「大きな讃辞」と見なせるというのは大塚久雄の慧眼だと思います。

そしてこれはまた、そうした批評をしばしばしてしまうタイプの人はじつは学問的創造の苦しみをまともに経験していない人だ、ということを含意しています。じっさい、学問的創造の苦しみを経験せずにあちこちから思想の断片を借りてきて、それらを根拠もなくつなぎあわせて偽物の「新しさ」や珍奇な概念の構築に汲々としている人が、この界隈にはけっして少なくないように思います。きっと大塚久雄の時代にもその手合いがいたのでしょう。だからこそ、真剣に創造に苦しむ若手たちがそういう人たちに挫かれないよう、励まそうとしたのではないでしょうか。

ただし、職業としての学問の精神からはほど遠いそうした手合いが批評する立場にたつことがあまりに多くなると、もう「大きな賛辞」だと言っているだけでは済まされません。悪貨が良貨を駆逐してしまうからです。

だとすると、学問の世界でほんとうに必要なのは、批評そのものよりも、批評の批評であるように思います。少なくとも、自分の批評は誤っている可能性がある、という反省(自己観察)がつねに必要です。そして、実際にそれができる人がこの界隈に何割くらいいるのかということは、いちど調べてみる価値がありそうです。

学問的創造の苦しみをともなわない批評(評価行為全般)は、ただ無用であるだけでなくときに有害ですらあることは、研究者ならば心にとめておくべきだと感じています。

  
コメント
コメントする









       
トラックバック
トラックバックURL
→http://balkantraveler.blog7.fc2.com/tb.php/45-c0192c9c
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)