大学院生のころ、ウィーン大学の政治学・社会学・日本学の学生たちとのジョイントセミナーに参加したことがある。そのときできたオーストリアの友人たちとはいまも交友があり、本当に良い思い出だが、そのときわたしは、"'Populist' and We: Entrance of Shintaro Ishihara and the Background" というタイトルで報告をした(プロシーディングスに論文所収)。初めての英語発表であり、たまたまアメリカから帰国して前日だったかに我が家に泊まっていった古生物学者の友人Kが、一宿一飯の恩義だと言って、朝までかかって本当に丁寧に英語校正してくれたことを覚えている(あらためてこの場を借りて感謝)。
 このころ、石原慎太郎氏が都知事選で史上最高の得票率による地滑り的大勝利したばかりで(英字新聞に "Landslide" という単語が踊っており、日本語の「地滑り的勝利」がむしろこの訳語なのかと察して少し驚いた)、欧米では「極右的な政治家」と報じられていたように思う。前回の選挙戦のときは割と静観していた日本の学者たちも、このころになると彼に対するポピュリズム批判で大変に鼻息が荒かった(ほぼ同時期に誕生した小泉政権もマックス9割の支持率を得ていただけになおさら)。ちなみにそのちょっと前には、オーストリアは、イェルク・ハイダー率いる自由党がやはりポピュリズムと批判されつつ政権入りして、EUから制裁を受けたことがあった。

 さて、上記の発表のなかでわたしは、石原慎太郎が世に登場してから世紀末に都知事になるまでのあいだに、「ポピュリスト」たる彼がどのタイミングで、どういう社会的・時代的背景でポピュラリティを得たかを、(拙いながらに)示した。つまり、「ポピュリスト」や「ポピュリズム」というのは、どこまでもそれを支持するそのときの世論(民意!)がなければ成立しないということである。
 「ポピュリスト」を支持した有権者は愚かだったのか? あるいは騙されたのか? その可能性はもちろんあるし、権力者に対する厳しく批判的な見方は必要である。ただ当時、わたし自身は、世論はわりとクールに判断していたと考えていた。すなわち、いろいろ生活不安が広がるなかで、強権的だったり既得権益の体制を変えてくれたりしそうなポピュリストを、まさにうまく利用しようとしたのではないだろうか。よしあしはともかく、この意味では世論は、ある種「合理的」ですらあったように思う。
 そもそも民主主義である以上、多かれ少なかれ、政治家や政党はポピュラリティ獲得競争である。たとえば旧社会党などは、典型的に「ポピュリズム」的だった(が、ポピュラリティを獲得しきれなかった)政党、だろう。

 ともあれ今回のトランプ現象に関しても、彼を支持する世論、すなわち「私たち」のほうをこそ理解すべきだろう。この理解というのは、マックス・ヴェーバーの理解社会学におけるそれであり、またしたがって、同意や許容を意味しない。トランプ支持について必ずしも同意や許容をする必要はないが、理解する必要はある。
 トランプ氏は、世界屈指の権力者になるわけだから、批判的に観察するのは必要だとしても(それはクリントンが大統領になってもどのみち必要だろう)、しかしながら、ただただ批判のための批判に終始してしまい、世論の支持を理解しようとしなければ、それは楽チンで紋切り型の思考停止であり、ことによると自分の社会的プレステージを維持するための、むしろ敵対イデオロギーとの共犯であって、ブルデューの言葉を借りていえば「業務上の過失」にほかならない。
 ちょうど先日、エマニュエル・トッドが朝日新聞のインタビューで次のように語っていた。


 世界中の働き手を競争に放り込み、不平等と停滞をもたらした、と人々は理解し、その二つを問題にする候補を選んだ。有権者は理にかなったふるまいをしたのです。奇妙なのはみんなが驚いていること。
 本当の疑問は「上流階級やメディア、大学人には、なぜ現実が見えていなかったのか」です。(略)
 民主主義という言葉は今日、いささか奇妙です。それにこだわる人はポピュリズムを非難します。でも、その人たちの方が、実は寡頭制の代表者ではないでしょうか。大衆層が自分たちの声を聞かせようとして、ある候補を押し上げる。それをポピュリズムと言ってすませるわけにはいきません。人々の不安や意思の表明をポピュリズムというのはもうやめましょう。

朝日新聞2016年11月17日:「『トランプ氏は真実を語った』 エマニュエル・トッド氏」より
http://digital.asahi.com/articles/ASJCJ4V6CJCJUPQJ006.html



 ちなみに、トランプの当確が出た直後だったか、先週11月17日に、1年生中心の教養教育の授業で、ふと2つ、聞いてみた。一つ目は、日本人としてトランプ大統領とクリントン大統領のどちらを歓迎するか、二つ目は、現在のアメリカを含めた先進国の中間~下層の状況を説明した上で、自分がアメリカ人(の白人中下層)だったとしたら、クリントンとトランプとでどちらを支持するか、である。
 やや誘導的、と言えばそうかもしれないが、結果、前者の問いに対しては、フィフティー・フィフティーで意見が分かれたが、後者の問いに対しては、トランプが9割ほどの支持であった。言うまでもないが、これをただ、「教化」の要する憂慮すべき事態として捉えるべきではない。いまの世の中を考えれば、ある意味で当然の現象だと思う。ふだんは善良で真面目な一市民でも、いやだからなおさらのこと、経済生活に不安を感じ、自分たちの価値観が「異分子」に侵されていると思えば、それに相応する指導者をまさに民主的に選ぶというものである。そういう変化に、「エスタブリッシュメント」の理解が追いついていなかった、あるいは教化対象だとするだけでまともに理解しようとしてすらなかったのかもしれない。
 実際には、理解しようとしなければ、それこそ新大統領への支持に駆り立てるリソースたる「エスタブリッシュメント」として、彼の支持者たちに燃料を投下し続けるだけである。今回の一件に臨んで、日頃政治的には「民意」を賞揚し、また研究上は「~に寄り添う」を合い言葉にしている人たちであればなおさら、反省を迫られているように思う。

 今回のトランプ現象に似たような現象は、ブレグジットしかり、EUなど他の先進諸国でも普遍的に見られる。ある一群の人びとにとって、目に映る周囲世界(環境 Umwelt)のなかでもっとも合理的な選択がそれであった。そして、批判者の人たちも同じような状況に置かれれば同じような選択をする確率がきわめて高い。それが人間というものだろう。
 しかしだからこそ、今回の現象は合理的に十分理解可能なはずであるし、また合理的に理解できるからこそ、次の別の選択肢を一緒に考えることができるというものである。そしてそれが、民主主義の可能性でもあると思う。相手も、自分も、理解不可能な、非合理的な暗闇ではない。

参考
人間性を理解する――『ブラッドランド』雑感
http://balkantraveler.blog7.fc2.com/blog-entry-194.html


  
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