いわゆる「国立大学」の文系学部の転換や縮小が文科省より提言されたのは周知の通り。もともと公教育の需要がないところに学制を敷き、大学に当初から工学を組み込んだところに、近代化すなわち富国強兵であった典型的な日本の姿があったし、戦後の経済復興の総力戦でもこれをなぞったが、21世紀の今日、待ったなしのグローバル化に加えて財政はジリ貧なので、選択と集中というわけで、過去の成功体験よもう一度、工業資本主義の再興を国策としてやろうと言うのだろう。あと、「文系の連中はいつも政府や官僚に批判的なのでこれを機に一掃できれば一石二鳥」くらいは考えているのかもしれない。
こうした状況に対して、フッサールの『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』よろしくプラトン以来の永遠の学問的理念に訴えて啓蒙を試みても、認識の相違はますます広がるだろう。むしろ相手の予期している時間地平(未来像)を疑い、「再ガリレオ化」の果てに訪れるはるかにリスキーな別様の未来を示すほうが、より説得的に啓蒙(社会学的啓蒙)できるかもしれない。
実際のところ、ポスト工業社会と言われて久しい今日、理系集中でそもそもやっていけるのかどうか。近年、技術はすごいが売れない製品ばかり作り続けてきたニッポンである。ゼロから創り出すという意味での創造力も怪しく、世界に誇れる独自製品としてはいまだウォークマンを持ち出すくらいしかない(こう言っては何だが、それだって「小さくしただけ」かもしれない。いずれにせよ「昔取った杵柄」である)。
というより、そもそもグローバル化というものをどう考えているのか。他の文化と社会に接触する機会がますます増え、その理解がこれまで以上に求められるのである。一歩先を行こうと思えばなおさらだろう。モノを作るときも、売るときも、買うときも、あらゆる場面でそうである。いわゆるテロ対策については言わずもがな。ついこのまえ「イスラム国」の件で、情報の収集分析能力、人的ネットワークなどがいかに足りないか、思い知ったばかりではなかったか。国内に目を向けても社会問題が山積で、それを放置していては内的安定もおぼつかない。国旗を掲げて国歌を斉唱し、道徳を教科化すれば、全員が従順でいてくれるとでも思っているのだろうか。
知性の使い方として理系集中しか思いつかないところに、知性のなさの匂いが漂っていて、「グローバル人材」の標語が聞いて呆れるが、文系縮減の果てにやってくるのは、いっそう知性のないチープなファスト国家であろう。どこかよその大国に消費されなければよいが、そうなっても気づくほどの知性もない末人的な未来が、もう目の前にある。
追記
そういえば、例の「スーパーグローバル大学」という言葉は、ネイティヴに聞いたところ、「SFのよう」とのこと。この名称を決めた人たちはスーパーグローバル人材なのだろうか。そうなら証拠を見せてほしいし、そうでなければ矛盾ここに極まれり。彼らも年俸制で働けばいいように思う。みなで査定するから。
2015/06/16 追記
某Endo君、拍手コメントありがとう。元気にやっていますか。また連絡しますから、いずれ飲みましょう。非公開設定のため返信ができなかったのでこちらで御礼まで。