今年度の後期の社会学概論では、市民的公共圏と近代社会の成立史にからめて、早い段階からちょくちょく特定秘密保護法案について触れてきた。ほとんどの学生はこの法案の存在自体をよく知らなかったし、わたしも分かる範囲で法案の問題点を指摘し、厳しいことも言いつつも、どこか楽観視していたところがあった。だが、ここ数日中のあれよあれよという間の急転直下の成立ぶりを見ると、事態は思ったより深刻だった。
 国境なき記者団(Reporters without Borders)による「報道の自由インデックス(Press Freedom Index)」で、2013年、日本は前年から31位も順位を下げて、全179カ国中53位だった。このことも授業で取りあげたのだが、いまとなっては、来年はここからさらにどれくらい順位を下げるのか、少し投げやりな気分とともにもはや楽しみですらある。
 ところで、第二次世界大戦前夜の1936年、カール・マンハイム『イデオロギーとユートピア』の英語版に、訳者のひとりであるルイス・ワースが寄せた前書きに、次のような箇所がある。


社会的知識に対照されるものとしての技術的知識の影響と、そうした技術的知識に対する態度とのあいだの差異について、ドラマティックな事例を、今日の日本が与えてくれている。その国は、西洋の影響潮流にいったん開かれるや、技術による生産品やそれを作る技術的方法は熱心に受容されたのだった。だが、外部からの社会的、経済的、政治的な影響は、今日においてさえも疑念をもって眺められ、頑なに抵抗されている。
 物理科学や生物科学の諸成果は、日本において熱狂をもって受けとめられているが、そうした熱狂と著しく対照的なことに、経済的、政治的、社会的な調査研究を育むことには、用心深く警戒を怠らないのである。これら経済的、政治的、社会的な主題の大部分は、日本人が危険思想(kikenshiso or "dangerous thoughts")と呼ぶものに、いまだに含められている。権力者たちは、民主主義、立憲主義、天皇、社会主義、そのほか多くの主題についての議論を危険なものと見なしている。というのは、それらのトピックについての知識は、公認の信念を転覆させて、既存の秩序を掘り崩すかもしれないからである。
 だがわれわれは、こうした状況が日本だけに特有だと考えてはならない。日本において「危険思想」の見出しに分類されているトピックの多くが、最近まで西洋社会においてもタブーだったということは、強調されるべきである。神聖視されて後生大事と思われている制度や信念のほとんどについて、オープンかつ真っ直ぐに、そして「客観的に」探究するのは、今日においてなお、世界のすべての国において多かれ少なかれ深刻な制限が課されている。たとえばイギリスやアメリカにおいてさえ、共産主義に関するアクチュアルな事実について探究することは、どれほど公平無私であったとしても、共産主義者だとレッテル貼りされるリスクを冒さずには事実上不可能である。(Louis Wirth, Prefaceより)


 どこかしらいまの日本や世界の社会情勢と重なる。実際、ここ1~2年ほど強く感じるのは、日本も世界もいろいろな面で、二度に及んだ世界大戦の前のような状況になっているのではないか、ということである。
 秘密を貫徹できるなら、嘘も可能になる。政府や役所が誠実だという前提はまったく維持できない。いまのイギリスやアメリカですらそうであり、ましてや日本をや、という感じがする。だから今後、お上から流通する情報は、これまでにも増して大本営発表だと考えなければならないかもしれない。だがそれを追究しようとすれば、危険思想だとされかねない社会が、もう目の前にある。


追伸
署名しました。

特定秘密保護法に反対する学者の会
http://anti-secrecy-law.blogspot.jp/
  
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