書くべきかどうか少し悩んだが、どういうことなのかさすがに事情を知りたいので、備忘録的意味も込めて記しておく。
わたしの手元にある本日2013年2月25日の朝日新聞朝刊に、ミルトン・フリードマンについて解説した記事が掲載されているのだが、そこで次のような一文を見かけた。
個人的感覚にすぎないのかもしれないが、このうち「70年代にクーデターで誕生したチリのピノチェト政権で行われたフリードマンの影響を受けた経済改革」という部分は、新聞記事としては悪文だと思う。なぜと尋ねられると即座には返答できないが、ただ少なくとも、わたしの脳内の文章モデルにはない書き方である。過去形の動詞が3回も連続していくこの書き方を、他の人は許容できるのだろうか。どうもわたしには、この文は、美しくないうえに一読してスムーズには理解できない。
そもそもわたしも自分の文章に自信があるわけではないが、なぜ今回わざわざこんなことを書いたかというと、揚げ足取りをしたいわけではなく、この1~2年のあいだ、新聞(わたしが現在購読している朝日新聞)で、上のような文章をよく目にするようになったからである。以前はそうした文章を見かけることはほとんどなかったのだが、最近何度も目にしており、あまりに急激にそうなったので、ブログに書くべきか悩んできた。ただ、知らないうちにわたしの読み方のほうが変わっただけという可能性も、原因として考えられなくはないので、けっきょくそのままにしてきたのだが。
念のため断っておくが、この文章を書いた記者氏を責めるつもりもない。人間であるかぎり間違いはぜったいにあるし、新聞記者であればむしろ、時間に追われてそのときの勢いで書かざるをえなかったり、推敲をする余裕がなかったりするだろうから、プロとはいえ妙な文章を書いてしまうことがあるのはよく理解できる。わたしだってそうである。
とはいえ、新聞社が文字情報を売る企業体である以上は、校閲部などで組織的にチェックする体制があるはずなので、この手の文章をそれなりの頻度で見かけるようになってきたということは、新聞社で何かが起こっているとしか思えない。チェックに人員を割く余裕がなくなってきているのか、それとも本当に新聞記者全体の文章力が低下しているのか。あるいは他に何か理由があるのか。
わたしの手元にある本日2013年2月25日の朝日新聞朝刊に、ミルトン・フリードマンについて解説した記事が掲載されているのだが、そこで次のような一文を見かけた。
カナダのジャーナリストのナオミ・クラインは、70年代にクーデターで誕生したチリのピノチェト政権で行われたフリードマンの影響を受けた経済改革がその後、世界に広がる米国型市場原理主義の源だと批判した。
個人的感覚にすぎないのかもしれないが、このうち「70年代にクーデターで誕生したチリのピノチェト政権で行われたフリードマンの影響を受けた経済改革」という部分は、新聞記事としては悪文だと思う。なぜと尋ねられると即座には返答できないが、ただ少なくとも、わたしの脳内の文章モデルにはない書き方である。過去形の動詞が3回も連続していくこの書き方を、他の人は許容できるのだろうか。どうもわたしには、この文は、美しくないうえに一読してスムーズには理解できない。
そもそもわたしも自分の文章に自信があるわけではないが、なぜ今回わざわざこんなことを書いたかというと、揚げ足取りをしたいわけではなく、この1~2年のあいだ、新聞(わたしが現在購読している朝日新聞)で、上のような文章をよく目にするようになったからである。以前はそうした文章を見かけることはほとんどなかったのだが、最近何度も目にしており、あまりに急激にそうなったので、ブログに書くべきか悩んできた。ただ、知らないうちにわたしの読み方のほうが変わっただけという可能性も、原因として考えられなくはないので、けっきょくそのままにしてきたのだが。
念のため断っておくが、この文章を書いた記者氏を責めるつもりもない。人間であるかぎり間違いはぜったいにあるし、新聞記者であればむしろ、時間に追われてそのときの勢いで書かざるをえなかったり、推敲をする余裕がなかったりするだろうから、プロとはいえ妙な文章を書いてしまうことがあるのはよく理解できる。わたしだってそうである。
とはいえ、新聞社が文字情報を売る企業体である以上は、校閲部などで組織的にチェックする体制があるはずなので、この手の文章をそれなりの頻度で見かけるようになってきたということは、新聞社で何かが起こっているとしか思えない。チェックに人員を割く余裕がなくなってきているのか、それとも本当に新聞記者全体の文章力が低下しているのか。あるいは他に何か理由があるのか。