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 丸山眞男の「政治的判断」と題した講演録がある。もとは1958年5月に信濃教育会上高井教育会総会でおこなった講演だそうで、同会『信濃教育』1958年7月号に掲載された(その後、多少の加筆修正を施されて『丸山眞男集』に再録された)。
 混迷気味の衆院選が目前に迫るいま、この講演はいろいろと示唆的で、一部の表現をのぞけばごく最近のものではないかと錯覚するくらいである。たとえば、二大政党制の自己目的化に対する批判、全体状況を判断する(いわゆるバッファープレイヤーとしての)投票行動の可能性、革新政党による保守感覚の動員の必要性、政局の安定化と政治の安定化(ひいては国民生活の安定化)との違い、などなど。
 解説するのはあまり好きではなく、得意でもないので、興味のある方にはぜひご一読いただくとして、ただ、次の文章だけは紹介しておきたい(以下は平凡社ライブラリーの『丸山眞男セレクション』〔2010〕所収の同講演より抜粋した)。

大衆運動のゆきすぎというものがもしあるとすれば、それを是正していく道はどういう道か。それは大衆をもっと大衆運動に成熟させる以外にない。つまり、大衆が大衆の経験を通じて、自分の経験から、失敗から学んでいくという展望です。そうでなければ権力で押さえつけて大衆を無権利にするという以外には基本的ないき方はない。つまり大衆の自己訓練能力、つまり経験から学んで、自分自身のやり方を修正していく――そういう能力が大衆にあることを認めるか認めないか、これが究極において民主化の価値を認めるか認めないかの分れ目です。つまり現実の大衆を美化するのでなくて、大衆の権利行使、その中でのゆきすぎ、錯誤、混乱を十分認める。しかしまさにそういう錯誤を通じて大衆が学び成長するプロセスを信じる。そういう過誤自身が大衆を政治的に教育していく意味をもつ。これがつまり、他の政治形態にはないデモクラシーがもつ大きな特色であります。他の政治形態の下においては、民衆が政治的訓練をうけるチャンスがないわけでありますから、民衆が政治的に成熟しないといってなげいても、ではいつになったら成熟するのか、民主的参加のチャンスを与えて政治的成熟を伸していくという以外にない。つまり、民主主義自身が運動でありプロセスであるということ。こういう、ものの考え方がまた政治的思考法の非常に大きな条件になってくるわけであります。/つまり、抽象的に、二分法で考えないで、すべてそれを移行の過程としてみるわけで、その意味でデモクラシー自身が、いわば「過程の哲学」のうえに立っております。(丸山眞男「政治的判断」杉田敦編『丸山眞男セレクション』384-385頁)



 楽観的すぎるとか、学者然とした物言いだとか、いろいろ批判は可能かもしれないが、われわれは結局、こうした「過程の哲学」としての民主主義のなかで、試行錯誤しながらやっていくしかない。同講演の別の箇所で丸山が言うように、政府がよい政策をやってくれるものだという前提で、そういう政治こそがベストの選択だとする考え方は、たやすく政治への幻滅や失望に転化する。
 さて今回はどうだろうか。一足飛びの問題解決を政治に過度に期待しては裏切られ、という繰り返しから、そろそろ少しは前に進みたい。だから、どこの政党が勝つのか、ということ自体は、もはや本質的には重要ではないような気さえする。山積する難題の前で、試されているのは、ほかでもないわれわれの成長度合いなのである。

丸山眞男セレクション (平凡社ライブラリー ま 18-1)丸山眞男セレクション (平凡社ライブラリー ま 18-1)
(2010/04/10)
丸山 眞男

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