遅ればせながら、2011年度に担当しているすべての授業・試験が終了しました。無事にこの1年を終えられたことに、まずはホッと安堵しています。
振り返れば本年度は、東日本大震災と福島原発事故という未曾有の大惨事の先行きが不透明のなか、騒然とした雰囲気で始まりました。
じつは年度開始当初、それぞれの授業の内容を、震災と原発の問題へと切り替えることも考えました。ただ、まさに現在進行中の現実の変動を追いかけながら授業で論じていくのはわたしの手に余ることでしたし、何より一社会学者としては、震災と原発それ自体よりも、むしろそれらが一種の社会現象として「今そのように」われわれの前に立ち現れることとなった背景とその分析視角を学生たちに示していくことが、重要であるように思えました。
なので悩んだ末、当初の予定どおり粛々と授業を進めつつ、震災と原発について合間合間に触れていくというかたちをとりました。こうした授業の進め方がはたして良かったのかどうかはわたしには分かりませんが、いずれにせよ、日本全体が揺れに揺れている不安な空気のなかで、受講生たちはよくついてきてくれたと思います。
とくに小さなゼミ的授業では、彼/彼女らの明るさに、わたし自身が内心勇気づけられることもしばしばでした。
まず社会学基礎ゼミ。
社会学を専攻する1年生を対象としたゼミなのですが、じつは1年生のこうした授業をもつのはわたしにとって初めての経験で、内心とても緊張していました。そもそも、社会学なんていう得体の知れない学問をこれから4年間学ばせようというのです。なので、三つ子の魂百までとなる1年次の「担任」にかかる責任は重大です。
この段階で、彼/彼女たちがどれくらい大学での授業の受け方を身につけ、学生生活の基盤となる友人関係を構築し、そしてそのうえで、社会学という学問の独得のパースペクティヴを理解し、どれくらいその「深み」にはまってくれるかが、その後の各人の大学生活を左右するのは明白でした。
授業の進行を考えた結果、社会学の「しゃ」の字もよく知らない1年生に、のっけからエミール・デュルケム『自殺論』の輪読と報告を課すことにしました。同僚の先生方には驚かれましたが、わたし自身が大学生の頃にそうしてもらったように、跳び越えるべきハードルは、それが高いほど、まだ何もよく分かっていない段階で跳ばせてしまったほうがよいと考えています。あんがい跳べるものですから。
個人的にはここ10年くらいの大学教育の失敗は、学校のサービス業化の流れのなかで教員側ないし大学側が学生側のレベルを勝手に低く見積もって、一方的にハードルを下げたことにあるように思います。ですが、それは本当に正しい判断だったのでしょうか。いずれにせよ、人間、低いハードルしか跳んでいないとますます高く跳べなくなるもの。大学で教壇に立つ人間として本来的に重要なのは、学生に背伸びをさせることのように思っています。
というわけで、担当教員の無茶な方針にもとづいて、受講生たちは『自殺論』のほかにもマックス・ヴェーバー『職業としての政治』を読み、また、現代日本社会の多種多様な問題をめぐる書籍を計16冊も読み、さらにはヴェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』とマルクス&エンゲルス『共産党宣言』にまで目を通し、途中、新宿・大久保地区のコリアタウンをフィールドワークするというオマケつきでした。
おそらく普通の社会学専攻の大学1年生が学ぶ質と量をはるかに超える内容であったと思いますが、1年生ながらキャラの立った男女15名の学生たちは、何やかんや言いながらそれらすべての課題をこなしきり、そのバイタリティと物怖じしなさで、ときに担当教員そっちのけで盛り上がってくれました。今度の夏にはみなで海外放浪の計画まで立てるなど、メンバーがとても仲が良く楽しい授業でした。
そして、例によって文献講読と自主ゼミ。
文献購読を担当するのは今年ではや3年目となりました。こちらの授業も上述の授業方針どおり、高いハードルを跳ばせることを目標にやってきました。今年の講読文献は、新訳の出たマルクス『経済学・哲学草稿』とヴェーバー『職業としての政治』です。年度ごとに講読書籍を変えながらも、最初の年以来、一貫してマルクスとヴェーバーの著作を読み続けてきました。
最初の2008年度は、わたしも半ば冗談で「革命」云々と連呼していましたが、そのうち現実がそうしたわたしの「おふざけ」(?)に追いついてきてしまいました。アラブ革命が起こって中東諸国の民主化が始まり、ウォール街がデモ隊に占拠され、日本でも原発や経済格差をめぐって、これまでそうした運動にかかわってこなかった市民層が社会変革の波に参加しはじめました。
これら一連の動きが今後どれほど持続するのか、またいかなる帰結をもたらすかは、経過を見守りながら冷静な分析が必要ですが、ただ、安定的でソリッドな時代が終わり、われわれがまさに社会の転換期に生きているということは、学生たちもきっと肌身で感じていることでしょう。
だからこそ、今日においてなお通用する古典的著作を徹底的に読み込むことには、軽薄で表面的な言説や、押しつけがましい理念に惑わされずに、自分たちの時代認識を深めるうえで有用だと思っています。
例年どおりと言うべきか、3~4年生からきわめて幅広くバラエティに富んだ受講生が集まり、掘れば掘るほどあまりに個性的な反応やエピソードの出てくるそれらのメンバーたちと、ときにデタラメに脱線して抱腹絶倒しながらも読み進み、飲み会も数回おこなって相当に酔っ払いました。前代未聞の社会変革活動をおこなう受講生もいましたし、メンバー同士がおたがいに大いに刺激を与え合って、ここから社会が変わっていく機運が盛り上がったような気もします。
またそれと連動して、今年も奇特な有志が自主ゼミをやりたいと言い出してしまい、ハーバマス『公共性の構造転換』とアドルノ&ホルクハイマー『啓蒙の弁証法』を読むことになりました。しかも今年は昨年度の文献講読受講の4年生のみならず、本年度の受講生の3年生からも途中から参加し、例によってたいがい脱線しながらも、夏には一泊合宿もおこない、この春休みには10時間以上歩き回って意外な穴場の社会科見学・企業見学もおこなうなど、盛り沢山の内容になりました。
未来は未来にあるのではなく、いま、ここにあります。
これから日本社会と世界社会がどうなっていくのか、わたしには正確な予想はつきませんが、以上のような多種多様な学生たちのいまを見ていると、未来は、社会学者一般が思うほどにはじつは暗くはないと思えてきます。
2011年度は、わたし個人にとってもいろいろと転機の一年となりました。
これまでの仕事と生活にひと区切りつきましたし、これをきっかけに、前に一歩、踏み出そうと思います。そして自分の未来を、いま、ここから、ふたたび作っていきます。
だから、先の見えない社会情勢ではあるけれど、そしてこれから先、それぞれいろいろ大変なことはあると思うけれど、1年生から4年生まで、受講生のみなさんもそれぞれの未来に向けて、勇気をもって飛躍してください。勇気をもって、です。心から期待しています。



振り返れば本年度は、東日本大震災と福島原発事故という未曾有の大惨事の先行きが不透明のなか、騒然とした雰囲気で始まりました。
じつは年度開始当初、それぞれの授業の内容を、震災と原発の問題へと切り替えることも考えました。ただ、まさに現在進行中の現実の変動を追いかけながら授業で論じていくのはわたしの手に余ることでしたし、何より一社会学者としては、震災と原発それ自体よりも、むしろそれらが一種の社会現象として「今そのように」われわれの前に立ち現れることとなった背景とその分析視角を学生たちに示していくことが、重要であるように思えました。
なので悩んだ末、当初の予定どおり粛々と授業を進めつつ、震災と原発について合間合間に触れていくというかたちをとりました。こうした授業の進め方がはたして良かったのかどうかはわたしには分かりませんが、いずれにせよ、日本全体が揺れに揺れている不安な空気のなかで、受講生たちはよくついてきてくれたと思います。
とくに小さなゼミ的授業では、彼/彼女らの明るさに、わたし自身が内心勇気づけられることもしばしばでした。
まず社会学基礎ゼミ。
社会学を専攻する1年生を対象としたゼミなのですが、じつは1年生のこうした授業をもつのはわたしにとって初めての経験で、内心とても緊張していました。そもそも、社会学なんていう得体の知れない学問をこれから4年間学ばせようというのです。なので、三つ子の魂百までとなる1年次の「担任」にかかる責任は重大です。
この段階で、彼/彼女たちがどれくらい大学での授業の受け方を身につけ、学生生活の基盤となる友人関係を構築し、そしてそのうえで、社会学という学問の独得のパースペクティヴを理解し、どれくらいその「深み」にはまってくれるかが、その後の各人の大学生活を左右するのは明白でした。
授業の進行を考えた結果、社会学の「しゃ」の字もよく知らない1年生に、のっけからエミール・デュルケム『自殺論』の輪読と報告を課すことにしました。同僚の先生方には驚かれましたが、わたし自身が大学生の頃にそうしてもらったように、跳び越えるべきハードルは、それが高いほど、まだ何もよく分かっていない段階で跳ばせてしまったほうがよいと考えています。あんがい跳べるものですから。
個人的にはここ10年くらいの大学教育の失敗は、学校のサービス業化の流れのなかで教員側ないし大学側が学生側のレベルを勝手に低く見積もって、一方的にハードルを下げたことにあるように思います。ですが、それは本当に正しい判断だったのでしょうか。いずれにせよ、人間、低いハードルしか跳んでいないとますます高く跳べなくなるもの。大学で教壇に立つ人間として本来的に重要なのは、学生に背伸びをさせることのように思っています。
というわけで、担当教員の無茶な方針にもとづいて、受講生たちは『自殺論』のほかにもマックス・ヴェーバー『職業としての政治』を読み、また、現代日本社会の多種多様な問題をめぐる書籍を計16冊も読み、さらにはヴェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』とマルクス&エンゲルス『共産党宣言』にまで目を通し、途中、新宿・大久保地区のコリアタウンをフィールドワークするというオマケつきでした。
おそらく普通の社会学専攻の大学1年生が学ぶ質と量をはるかに超える内容であったと思いますが、1年生ながらキャラの立った男女15名の学生たちは、何やかんや言いながらそれらすべての課題をこなしきり、そのバイタリティと物怖じしなさで、ときに担当教員そっちのけで盛り上がってくれました。今度の夏にはみなで海外放浪の計画まで立てるなど、メンバーがとても仲が良く楽しい授業でした。
そして、例によって文献講読と自主ゼミ。
文献購読を担当するのは今年ではや3年目となりました。こちらの授業も上述の授業方針どおり、高いハードルを跳ばせることを目標にやってきました。今年の講読文献は、新訳の出たマルクス『経済学・哲学草稿』とヴェーバー『職業としての政治』です。年度ごとに講読書籍を変えながらも、最初の年以来、一貫してマルクスとヴェーバーの著作を読み続けてきました。
最初の2008年度は、わたしも半ば冗談で「革命」云々と連呼していましたが、そのうち現実がそうしたわたしの「おふざけ」(?)に追いついてきてしまいました。アラブ革命が起こって中東諸国の民主化が始まり、ウォール街がデモ隊に占拠され、日本でも原発や経済格差をめぐって、これまでそうした運動にかかわってこなかった市民層が社会変革の波に参加しはじめました。
これら一連の動きが今後どれほど持続するのか、またいかなる帰結をもたらすかは、経過を見守りながら冷静な分析が必要ですが、ただ、安定的でソリッドな時代が終わり、われわれがまさに社会の転換期に生きているということは、学生たちもきっと肌身で感じていることでしょう。
だからこそ、今日においてなお通用する古典的著作を徹底的に読み込むことには、軽薄で表面的な言説や、押しつけがましい理念に惑わされずに、自分たちの時代認識を深めるうえで有用だと思っています。
例年どおりと言うべきか、3~4年生からきわめて幅広くバラエティに富んだ受講生が集まり、掘れば掘るほどあまりに個性的な反応やエピソードの出てくるそれらのメンバーたちと、ときにデタラメに脱線して抱腹絶倒しながらも読み進み、飲み会も数回おこなって相当に酔っ払いました。前代未聞の社会変革活動をおこなう受講生もいましたし、メンバー同士がおたがいに大いに刺激を与え合って、ここから社会が変わっていく機運が盛り上がったような気もします。
またそれと連動して、今年も奇特な有志が自主ゼミをやりたいと言い出してしまい、ハーバマス『公共性の構造転換』とアドルノ&ホルクハイマー『啓蒙の弁証法』を読むことになりました。しかも今年は昨年度の文献講読受講の4年生のみならず、本年度の受講生の3年生からも途中から参加し、例によってたいがい脱線しながらも、夏には一泊合宿もおこない、この春休みには10時間以上歩き回って意外な穴場の社会科見学・企業見学もおこなうなど、盛り沢山の内容になりました。
未来は未来にあるのではなく、いま、ここにあります。
これから日本社会と世界社会がどうなっていくのか、わたしには正確な予想はつきませんが、以上のような多種多様な学生たちのいまを見ていると、未来は、社会学者一般が思うほどにはじつは暗くはないと思えてきます。
2011年度は、わたし個人にとってもいろいろと転機の一年となりました。
これまでの仕事と生活にひと区切りつきましたし、これをきっかけに、前に一歩、踏み出そうと思います。そして自分の未来を、いま、ここから、ふたたび作っていきます。
だから、先の見えない社会情勢ではあるけれど、そしてこれから先、それぞれいろいろ大変なことはあると思うけれど、1年生から4年生まで、受講生のみなさんもそれぞれの未来に向けて、勇気をもって飛躍してください。勇気をもって、です。心から期待しています。


