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 先日、現象学的社会学者のアルフレート・シュッツに関する下記拙稿について、執筆後記その1をアップロードしましたが、本稿の成立史にも参考まで簡単に触れておきたいと思います。

Tada, Mitsuhiro, 2023, “Alfred Schutz on Race, Language, and Subjectivity: A Viennese Jewish Sociologist’s Lifeworld and Phenomenological Sociology within Transition from Multinational Empire to Nation-State,” Kumamoto Journal of Humanities, 4: 103-158.
 
 というわけで、今回は執筆後記その2です。
 まず、本稿の初発の問いとそれに付随するほかの諸々の問いは、じつは大学3年生のときに立てたものであり、本稿ではそれらがそのまま活かされています。そんな昔に問いを立てたのにいままで何をやっていたんだと言われるかもしれませんが、2012年刊行の拙著『社会的世界の時間構成ーー社会学的現象学としての社会システム理論』(ハーベスト社)につながる問いを立てたのがそれよりさらに昔の高校2年時で、その解決の糸口がありそうと感じたのが大学2年生のときだったので、研究の世界に入ってからというもの、先着順で課題を片付けていた次第でした。
 ともあれ、本稿に結実する最初の問いを立てた当時、高校までのごく常識的な近代史の知識にくわえて、折しもユーゴ紛争の最中だったこともあり、ナショナリズムという観点から論じるべき問題だろうとはすでに直感していました。とはいえ、そのときはまだ学部生でしたし、大学院に進みはしたものの、いまと比べてナショナリズムという現象のことをはるかによく理解しておらず、このことも本テーマへの本格的な取り組みを後回しにした理由のひとつでした。代わりにそのあいだ、シュッツについてはコツコツと理論的理解に努めていました。
 とはいえこの長い準備期間に、幸いにもナショナリズムの研究に少しずつたずさわるにいたる巡り合わせがあり、また歴史学や社会学の分野では当時の中東欧のナショナリズムに関する研究が大いに進展しました。そのおかげで、シュッツの社会学思想の形成に寄与したであろう生活世界的な背景を明らかにするという、ほぼ未踏の山を登頂するために必要な道具立てを揃えることができました。こうしたわけで、早すぎず遅すぎず、絶妙のタイミングで本課題に本格的かつ集中的に取り組むことができたと思います。

 なお本稿自体は英語論文ですが、使用した文献には翻訳書も含めて日本語のものも多く含んでいます。とくに本稿にとって決定的な手がかりとなったのは、ウィーン・ユダヤ人についての日本語でのたいへん優れた歴史学研究でした。国際的にも第一級の仕事に母語でアクセスできるのは大きなアドバンテージでした。いずれにせよ、本稿の執筆を通じて、オーストリア=ハンガリー帝国を含めた中東欧地域に関する日本語での研究の厚みを再認識し、あらためて驚かされるとともに、大いに助けられました。
 オーストリア=ハンガリー帝国に関する日本語での研究のすべてを、本論文中で参照できたわけではありませんが、とくに本稿は社会学や哲学のみならず、西洋史学や社会言語学、さらには文学、法制史、経済学などの他領域にも分け入った学際的研究であるだけに、日本語でのそれら優れた先行研究がなければ、本稿の執筆には限界があったことは間違いありません。それら他分野の研究者の方々とは直接お会いする機会はほぼないだろうとは思いますがが、オーストリア=ハンガリー帝国という一点で研究を通じてつながったことには感慨深いものがありました。

 なお、本稿で参照した文献の言語は、日本語と英語以外にも、独仏露語に及びます。日本語以外はいずれもわたしの母語ではないので、非母語のそれらの外国諸語を英訳するのにはたいへんな労力と神経を使いました。
 なかでも本稿のストーリーの中心になったのはもちろんドイツ語の文献です。もしかすると英語とドイツ語のあいだの翻訳は比較的簡単だと思われるかもしれませんが、じっさいには、あるドイツ語の重要単語とそれと見かけ上は似た英単語とで、意味が微妙に、しかし重大な点でずれていることは少なくありません。じっさい「人種」概念について、サンジェルマン条約での仏英語から独語への「翻訳の不確定性」が引き起こした問題は、本稿のひとつのモチーフになりました。また、「ナショナリティ」のような法律と絡みうる用語の翻訳は、ドイツ語からならば、英語よりも日本語へのほうがおそらくはるかに容易であると思います。おそらく日本の近代法体系がドイツ(語)のそれをモデルにしたという歴史的経緯のせいでしょう。
 そのため当初、本稿はドイツ語で執筆しようかと考えていたくらいで、じっさい本稿のもととなった内容は、さいしょに2019年にベルリン工科大学の一般社会学ワークショップでドイツ語で発表させてもらったものです。そのときわたしの当地での在外研究のホスト教員を引き受けていただいていた、現象学的社会学および言語社会学の研究で著名なクノーブラオホ先生からは、当発表について多くのご質問をいただいた上に、「完全に新しい!」と興奮気味におっしゃっていただきました。これまでそのワークショップでクノーブラオホ先生がそのように誰かを褒めることはほとんど見たことがなかったので、周りも大いに驚きましたし、わたしにとっては大いに励みになりました。

 じつは本稿(とくに本文)は、コロナ・パンデミック直前の2020年2月ごろには、ほぼ現在のかたちでベルリンで完成していました。ちょうど本稿執筆の最後の詰めで、ドイツ国立図書館(ベルリン)とフンボルト大学図書館から文献を借りだしていたのですが、両図書館ともコロナ感染急拡大によって休館となったため直接返却できなくなり、帰国の予定も迫っていたため、問い合わせたうえで急いで郵送で返送したのでした。そのときのことはいまもありありと覚えています。けっきょく飛行機の欠航が続くなどの混乱で、しばらく帰国できませんでしたが・・・。そのときのドイツでの体験と帰国時の顛末は、また機会があればどこかで書くかもしれません。
 ともあれ、2020年2月ごろのバージョンのファイルが、当時の日付で手元に残っています。上で述べたように、本文はおおよそ現在のかたちと変わりません。ただ、コロナパンデミックに付随する諸々の混乱その他の諸事情でわたしも忙殺を余儀なくされた上に、そもそもその時点で一般の論文の分量を大幅に超過しており、だからといって内容を縮減すると、プロパーのシュッツ研究者も含めてほとんどの社会学者に馴染みのないオーストリア=ハンガリー帝国のナショナリズム問題という舞台背景がまったく理解されないことは必至であったため、本稿はけっきょくほぼそのまま塩漬けを余儀なくされました。
 その間、グローバルなコロナ危機のさなかで、人種に関する諸々の事件や現象が急激に注目を集めるようになり、さらに2022年2月にはロシアがウクライナに侵攻するに及んで、2020年2月時点の草稿ですでに論じてあったことや示唆してあったこととが、まるでそのまま現実になっていくような錯覚を抱きさえしました。
 こうした経緯を思えば、本稿がより早く刊行されていれば、著しくアクチュアルであったかもしれないとは思います。また本音をいえば、それよりももっと早い2018年のオーストリア=ハンガリー帝国解体100年に合わせて刊行したかったくらいでした。ただそれにはすでにとっくに間に合わなくなっていましたが。
 いずれにしても、2020年2月からしばらくそのままに寝かせたことで、結果として本稿のテーマに関連するこの3年ほどの重大な時事的事象を脚注や最終節に盛り込むことができ、かえって本稿の議論に深みと説得力が増しただろうと自負する次第です。

 本稿の成立にかかわる事柄をもう1つ。
 本稿は、ある意味で、旧ユーゴスラヴィアへのわたしの長年の個人的関心を敷衍したものであり、とくにこの20年ほどのあいだ、バルカンも含めて「中欧(中東欧)」という枠組での研究をひとつの課題として掲げてきた成果でもあります。
 もともと旧ユーゴには、その独自の政治路線もあって子どものころから関心があったのですが、冷戦崩壊を経て平和が訪れるのかと思いきや、上述のとおり、わたしが学生時分にユーゴ紛争が激化しており、衝撃を受けていました。
 その後、大学院時代にウィーン大学の学生たちと交流する機会があり、先方が日本を訪れたのにつづいて、こちらからウィーンを訪れるさいに、ついでにウィーン大学のドイツ語サマーコースに参加しました。そしてそこで同じクラスになった面々に、ポーランド、ルーマニア、ウクライナ、イタリアなどからの人たちがいました。ただ、彼女たちはオーストリアの文化や歴史に専門的な関心があるわけでは必ずしもなかったため、「なぜいっそ経済強国のドイツのほうに行かないのだろう」と不思議に思っていました。
 が、その後ふと、彼女たちの出身国が、かつてのオーストリア=ハンガリーの帝国領土と重なることに気づきました。わたし自身、第一次世界大戦後あるいは第二次世界大戦後の国境線のイメージが強すぎて、このことにはすぐには気づかなかったのです。彼女たちの出身都市や地域がじっさいに旧帝国領かは分かりませんし、もちろんほかの理由があるか、あるいはまったくの偶然だったかもしれないですが、少なくともそれらの国々のいくらかの人びとが、かの多民族帝国の記憶を共有していて、ある種の馴染みがあるのは間違いないはずです。

 そんなこともあって、ようやくユーゴ紛争も落ち着いて初めて訪れたベオグラードのカレメグダン要塞から、ドナウ川を挟んで旧オーストリア=ハンガリー帝国のヴォイヴォディナを眺め、そしてそこからさらにボスニア・ヘルツェゴビナに向かってサラエボ事件の現場を訪れたとき、「このあまりに広大で複雑な民族事情のオーストリア=ハンガリー帝国の旧版図は調査としてめぐってみる必要がある」と感じました。中東欧の国々のあいだの地理的・歴史的・心理的な近さ(およびある種の遠さ)が、ようやく自分のなかで実感をもって像を結び始めたからです。
 これと前後して、オーストリアで、クロアチア人のご老人と電車のコンパートメントで一緒になったことがあります。たいへんかくしゃくとした男性でしたが、聞けば90代とのこと。計算すると、なんとオーストリア=ハンガリー帝国期の生まれであり、帝国の時代がまだそこまでの過去ではないと認識して大いに驚きました。彼は、わたしがドイツ語を分かると知るや、「ギムナジウムで自分もドイツ語を習った」とクロアチア語なまりのドイツ語でたいへん誇らしげに語ってくれました。これはわたしに、中東欧地域でのドイツ語の文化的威信を確証させてくれる出来事でした。さらに、その後の二度目のベオグラードでセルビア語を夏中かけて1ヶ月ほど学んださい、滞在先のゲストハウスにしょっちゅう遊びに来ていて仲良くなった若いセルビア人が、普段はウィーンでドイツ語通訳となるべく勉強していると知ったことも、中東欧でのドイツ語の位置づけを体感的に理解するひとつのエピソードとなりました。
 ともあれ、オーストリア=ハンガリー帝国の版図は広大なため、一気にすべてを回るということはできませんでしたが、コツコツと断片的にフィールドワークをつづけて、残すはウクライナとルーマニアでとりあえず完結するところまで漕ぎ着けていました。ルーマニアには過去にすぐ近くまでは接近したものの立ち寄る時間がなくて断念し、またウクライナには、オレンジ革命前後期から何度か訪問の計画を立て、とくに2017年と2019年はどちらもあと一歩で実現するところまで来ていたのですが、突発的な事情もあって断念していました。
 ウクライナでは、キーフはもちろん、シュッツの先生のひとりであるルートヴィッヒ・ミーゼスの出身地であるリヴィウに訪れてみたかったのですが、それがまさかのロシアによる侵攻が発生し、リヴィウの名も、ポーランドとのゲートウェイとしてあのようなかたちで世界に知られることになるとは思いもよりませんでした。むろんそれ以前にすでにウクライナの東部やクリミアでの戦闘はあったものの、正直、あれほど大規模かつ正面から、ユーゴ紛争のような凄惨・陰惨な虐殺や性暴力を、子どもを含めた一般市民を対象としてともなった戦争がふたたびヨーロッパの地で起きるとは、想像だにしていませんでした。なまじユーゴ紛争について調べる過程でそうした戦争犯罪のことも詳しく知るようになっただけに、このウクライナ侵攻のことはなかなか直視できないでいます。とにかくウクライナが、もうこれ以上の犠牲を出すことなく一刻も早く平和を取り戻せることを願うばかりです。

 なお、この現状を踏まえて、ミーゼスのこととウクライナのことについては、注釈でそれなりに詳しく触れています。とくにミーゼスについては、彼の経済思想形成のバックボーンにオーストリア=ハンガリー帝国があることは、これまでほとんど不可解なほど無視されていました。しかしながら、シュッツがウィーン大学で学び始めた翌年1919年の、おそらくサンジェルマン条約調印直前にミーゼスが刊行した『ネーション・国家・経済』は、タイトルからも内容からも、彼が当時の状況を念頭にしているのは明らかであり、じっさい彼は古典的自由主義の観点からマイノリティのマジョリティへの自然同化を肯定的に評価し、ひるがえって国家統制を批判しているので、彼の思想形成における生活世界的背景は無視できないはずです。
 ミーゼスのことはまたいずれ本稿の文脈との関連で詳しく論じたいと思いますが、彼の思想形成におけるオーストリア=ハンガリー帝国といういわば「リベラル帝国」(ジャドソン)の背景の影響については、論理的かつ合理的、そして何より現象学的に考えて、とうぜん同様のことがシュッツにも当てはまるはずです(ちなみについでに言うと、シュッツの学友であるエリック・フェーゲリンは、シュッツの『社会的世界の意味構成』刊行翌年に、人種問題に関する著作を2冊も刊行しています)。

 いずれにせよ、今回の本稿が、たんなる机上の観念的な産物でないのはもちろん、文献資料だけにもとづくわけでもなく、コツコツとおこなったさまざまなフィールドワークをベースとするものであることは、強調しておきたいと思います。
 上で記したこと以外にも、たとえば、本稿でも登場する東方ユダヤ人を体感的に理解する上で、ガリツィア地方に位置するクラクフの旧ユダヤ人街を訪れたことや、「西のエルサレム」とも称されるベルギーのアントワープで、正統派ユダヤ教徒たちの集住する一角に期せずして迷い込んだときの不思議な経験も、大いに役立ちました。また、現在のポーランドに位置するアウシュヴィッツ・ビルケナウ強制収容所、ならびにドイツ国内のいくつかの強制収容所を回った経験も、本稿執筆にあたり大いに活きたと思います。
 さらに本稿は、旧オーストリアハンガリー帝国領の諸国やその周辺諸国、あるいはその他の欧米諸国のみならず、韓国、台湾、香港、フィリピン、インドネシア、タイ、ラオス、ミャンマー、マレーシアといったアジア諸地域で集中的におこなった別のフィールドワークの経験も、相対化という点で大いに活きています。日本や研究対象の海外の馴染みの国での経験とは別の場所での、また別様の経験こそが、自分が自明視している諸々の前提を相対化することを可能にします。そしてそれが翻って、特定のフィールドでの自分のプロパーの研究を、世界社会というより大きな時代と空間のなかに位置づけるのに役立つのだと思います。
 社会学者は往々にして、ナショナリズムを批判しながらも、みずからの研究では方法論的ナショナリズムの一国主義に陥りがちです。わたし自身は、統計データやその他の事情から方法論的ナショナリズムを意識的に採用する研究を、すべて否定するつもりはいっさいありません。そもそも、研究に割けるリソースはかぎられていますから、特定の国民社会に限定して深く理解しようとする姿勢も否定しません。
 ただ、たとえば日本の社会学者なら、フィールドが(日本以外なら)海外のどこか一カ国に限定されるのがスペシャリストとして当然といった暗黙の前提にはちょっと退屈さを感じます。現代では、まずは世界社会こそが本来的に所与の実在的フィールドであり、そうしたボーダレスの現実こそが前提なのだと、発想を転換させる必要があるように思います。じっさい、オーストリア=ハンガリー帝国の熾烈な言語闘争と最終的な分解は、同じく多民族であった当時の帝国日本の言語政策の方向性にも影響を及ぼしたという点で、日本の「われわれ」にとっても無関係ではないのです。

 ともあれこのようなわけで今回の拙稿は、ドイツ帝国のマックス・ヴェーバー、フランス第三共和政のエミール・デュルケム、そして、のちに内戦を経て旧ユーゴスラヴィアから独立した現在のスロヴェニア出身のトーマス・ルックマンという、3人の社会学者のそれぞれの言語観とナショナリズムとの関係について、過去に公刊した拙稿につづくものです。正直、このテーマにはダイレクトな先行研究がほぼ存在せず、あげく対象国も時代も毎回違うだけに、暗中模索と苦労の連続ですが、反面、フカフカの新雪を歩くときのような楽しみと新発見に次ぐ新発見の喜びもあります。
 以上の3名の社会学者について、わたしは専門的な研究者とは自認していません。じつはシュッツについてすらそうです。ですから、以上の一連の拙研究について異論のある向きもあるでしょう。正当な異論反論ならぜひ歓迎したいと思いますが、しかし残念ながら研究業界でも、ある種の縄張り意識によって「われわれ」が「かれら」を排他的に境界づけたり、解釈を独占したがる人がいたりすることがあるのは事実です。職業としての研究者の態度としてはちょっと理解に苦しむところですし、そうした態度は、むしろ当該分野を衰退させるだけのように感じます。
 いずれにせよ、ある研究領域に新しさをもたらすのは、往々にして「よそ者」ではないかと考えています。シュッツもそうだったのではないでしょうか。ですからわたし自身は、学問の進歩に少しでも寄与すべく、想像上の産物にすぎないそんな境界をつねに横断しつづけたいと思います。なお今回の本稿では、間接的にですが、シュッツの言語観とその社会背景が、上記のヴェーバー、デュルケム、ルックマンという3人のそれとどう違うのかも示したつもりです。あわせてご笑覧いただければ、社会学者たちの言語観にその生活世界が与える影響について、さらに深く広く、また重層的にご理解いただけるだろうと思います。

 本稿ではとくにシュッツの論文「平等と社会的世界の意味構造」に触れることが多かったですが、彼のその論文のなかでは、とつぜん「宗教的ではないメンバーは宗教的マイノリティの一員と見なされるべきか」という一文が出てきます。この唐突な一節にシュッツがひそかに込めたであろう意味を、その生活世界的背景に照らして理解したとき、いつか誰かが拾ってくれるものと彼が期待して学問の海に投げた「投壜(とうびん)通信」を受け取ったような気持ちになりました。つねに越境的な研究を心がけてきたその努力が、ひとつの発見に結びついたものと自負しています。じっさい本稿で示したように、この「平等」論文は、彼の別の論文「よそ者」「帰郷者」同様、直接には述べられておらずとも彼の経験をベースにしたもののひとつとして解釈されるべきだと思います。
 ともあれわたしは、本稿で示したシュッツの言語観や帰属論が、現実社会に適用された場合にいかなる問題やコンフリクトも生じさせずに完璧にうまくいくと考えているわけではありません。できるかぎりその現代的な可能性(たとえば欧州議会の提唱する複言語主義など)も示唆したものの、間接的ながら限界も同時に示したつもりです。理論的にそこをどう詰めていくかは、今後のさらなる課題のひとつとしたいと思います。



すでに先月に当ブログ等でお知らせしたとおり、現象学的社会学者のアルフレート・シュッツに関する下記拙稿が刊行されました(フリーダウンロード可)。ついては、今回はその執筆後記その1です。

Tada, Mitsuhiro, 2023, “Alfred Schutz on Race, Language, and Subjectivity: A Viennese Jewish Sociologist’s Lifeworld and Phenomenological Sociology within Transition from Multinational Empire to Nation-State,” Kumamoto Journal of Humanities, 4: 103-158.

本稿は、シュッツがどうして社会諸科学のなかでもとくに社会学、それも主観主義の社会学を選んだのかを、シュッツの生活世界的背景から読み解くと同時に、どうして主観主義が社会学に必要かについてのひとつの決定的な回答を提出したつもりです。
あらゆる科学の根底に生活世界があるという現象学の中心的洞察に立ち返るならば、シュッツの現象学的社会学の構想にどのような生活世界的背景があるかは無視するわけにいかないはずです。だとすれば、第一次世界大戦後の多民族国家オーストリア=ハンガリー帝国から国民国家オーストリア共和国への移行というシュッツの青年期の激動、またそれにともなってウィーン・ユダヤ人たちが国家のメンバーシップに関して被った(したがってシュッツも体験したであろう)困難が、彼の現象学的社会学の構想にどういう影響を及ぼしえたかは、無視できません。ですがこのことは、わたしの知るかぎり、伝記的な叙述をのぞいてこれまで正面から考察対象となったことはありません。
オーストリア=ハンガリー帝国は、主要言語だけ見ても、ゲルマン語派(ドイツ語)、フィン・ウゴル語派(ハンガリー語)、スラブ語派(ウクライナ語、ポーランド語、チェコ語およびスロヴァキア語、スロヴェニア語、セルボ=クロアチア語)、イタリック語派(ルーマニア語、イタリア語)という、相互に意思疎通が不可能なヨーロッパの錚々たる諸語派および諸語が同権で併存するという、驚異の多民族帝国でした。しかも支配層と言えるドイツ語話者が、全体のなかで数の上ではマイノリティという複雑な状況です。この大帝国がたった100年前までヨーロッパに存在し、崩壊したというのは、当地で生きた当時の人びとからすれば一種のカタストロフィだったはずです。その点ではシュッツもまた例外ではなかったでしょう。彼は真空のなかに生まれたのでなければ、私的世界のなかに引きこもっていたわけでも、また学術的コミュニティのなかだけで生きたのでもありません。ウィーンで生身の人間として生きたのです。

かくして本稿では、シュッツがとくに類型化の問題を主題化するに至った背景を、オーストリアのメンバーシップ(=「われわれ」)の定義をめぐる人種と言語の問題に焦点を当てながら、とくに19世紀、20世紀、そして21世紀までを跨いだ、大きなひとつの近現代史の物語として示したつもりです。
すなわち、啓蒙主義によるユダヤ人解放から多民族帝国オーストリア=ハンガリーの成立までを前史とし、それを踏まえて、第一次世界大戦の敗北にともなう帝国解体と「ドイツ人の国民国家」オーストリア共和国への移行、共和国政府による人種主義の公認イデオロギー化、ナチスドイツによるオーストリア併合(アンシュルス)、そしてさらに冷戦(冷たい平和)とその崩壊を経て、このグローバル化時代における先進諸国での格差拡大とナショナリズムの興隆、コロナパンデミック下での人種差別の激化、およびロシアのウクライナ侵攻までを、シュッツの思想形成とアメリカへの亡命といったライフヒストリーとに重ね合わせながら、脚注もフルに使って描き切りました。
なおこのうち、最終第4章「エピローグ―『われわれ』と『かれら』の時代の社会学」では、今日の世界社会の時代におけるわれわれの生活世界が、いわば唯一の客観的実在としてどのようなものかを示した上で、より一般的な社会学論も展開しました。ヘッベルが述べたように、オーストリアはこの大きな世界のいわばリハーサル場であり、現代グローバル社会を考える上で格好の先行事例でもあるからです。よって本稿は、たんなるシュッツ研究という範囲を超えて、現代の社会学者一般にも訴える内容となっていると思います。
もちろん純粋にシュッツ論としても、本稿が、シュッツの作品群を深く理解するための一本の有意味な補助線となっていることを願う次第です。本稿読了後にシュッツの諸作品を読むと、それまでとはまったく違ったふうに現れてくるはずです。ちなみに、シュッツの2回の渡米時の乗船記録とそこでの記載内容の、ごく短期間での変化の意味について言及したのも、世界で本稿が初めてだと思います。

なお本稿は、シュッツ自身が目指したとおり「市井の人」たちの知識社会学として議論を展開した一方で、ハイカルチャー思想に関するシェーラーやマンハイムの高踏的な知識社会学としても、関連する多くのサイドストーリーを示唆しました。たとえば、日常言語の哲学ないし社会学に関心のある人は、どうして日常言語が問題になる(なった)のかについて、本稿から、「国民国家」というひとつの大きな歴史的コンテクストについての示唆を得るだろうと思います。
 またとくに脚注では、本稿のテーマがシュッツ本人だけでなく、ウィーンの言語哲学者ヴィトゲンシュタインならびに論理実証主義のウィーン学団、シュッツの師である経済学者ルートヴィッヒ・ミーゼスと法学者ハンス・ケルゼン、理解社会学の祖マックス・ヴェーバー、シュッツの友人であり人種についての著作を公刊した政治哲学者エリック・フェーゲリン、オーストリア=ハンガリー帝国の民族問題についての著作があるカール・レンナーやオットー・バウアー、主観主義法学者のエトムント・ベルナツィク、オーストリアの社会学者グンプロヴィッツなどとどのように関係しているかも、示唆しました。これらの人びとの思想も包括したより大きな研究は、次の課題のひとつとするつもりです。

 なお本稿は、ここしばらく集中的に取り組んでいる、社会学理論家の言語観とナショナリズムの関係にかんする一連の拙研究の一部です。とくにデュルケム、ヴェーバー、ルックマンの言語観に関する以下の拙稿もあわせてお読みいただくと、今回のシュッツ論で論じた内容に対する理解がいっそう深まると思います。どうぞご笑覧ください。

1)Tada, Mitsuhiro, 2020, “Language and Imagined Gesellschaft: Émile Durkheim’s Civil-linguistic Nationalism and the Consequences of Universal Human Ideals,” Theory and Society, 49(4): 597-630.

2)Tada, Mitsuhiro, 2018, “Language, Ethnicity, and the Nation-State: On Max Weber’s Conception of 'Imagined Linguistic Community,'” Theory and Society, 47(4): 437-466.

3)Tada, Mitsuhiro, 2015, “From Religion to Language: The Time of National Society and the Notion of the 'Shared' in Sociological Theory,” The Annuals of Sociology, 56: 123-154.

なお、シュッツに関する今回の拙稿がどういう経緯で成立したかについては、「執筆後記その2」として、また後日こちらで書きたいと思います。