fc2ブログ
  

現象学的社会学者のアルフレート・シュッツに関する拙稿が刊行されました。
以下よりPDFファイルでフリーダウンロード可です。

Tada, Mitsuhiro, 2023, “Alfred Schutz on Race, Language, and Subjectivity: A Viennese Jewish Sociologist’s Lifeworld and Phenomenological Sociology within Transition from Multinational Empire to Nation-State,” Kumamoto Journal of Humanities, 4: 103-158.

 シュッツの現象学的社会学の構想の背景を、多民族帝国オーストリア=ハンガリーから国民国家オーストリアへの移行とそれに伴うユダヤ人の排除という、シュッツ自身の生活世界の激変を踏まえつつ、当地で国家へのメンバーシップ(ナショナリティないしシティズンシップ)を規定した「人種」「言語」「主観性」という3つの要素の絡み合いに着目して明らかにしました。
 また最終章(第4章)では、第一次世界大戦前後期のそうした激動のオーストリアを、ナショナリズムやレイシズムが高揚する今日の世界社会の先行事例として踏まえつつ、現代においてわれわれの生きる実在的な生活世界とはどのようなもので、かつ分断深まる今日にあって社会学はどうありうるかについて、よりアクチュアルな社会分析と一種の社会学論も示しました。

 以下、本稿の要旨・キーワード・目次を、参考まで仮訳で掲げておきます(要旨の訳文については分かりやすさのために若干の意訳や言葉の補足を含みます)。


【要旨】
本稿は、現象学的社会学の先駆者であるアルフレート・シュッツが、主観主義の社会学を選んで類型化の問題に取り組んだ社会史的背景を、彼の言語観を手掛かりにして明らかにする。多民族帝国オーストリア=ハンガリーでは、ドイツ語話者は行政的にはドイツ人と見なされ、また、ナショナリティは究極的には主観的なアイデンティティに基づけられた。「啓蒙的」ユダヤ人たちも、西洋文明への入場チケットであるドイツ語を習得することで、「ユダヤ教を信仰するドイツ人」となった。だが、1918年以降のオーストリアにおける客観科学風の人種イデオロギーは、同質化された人種類型をもって、新しいドイツ国民国家オーストリアの正規メンバーシップからユダヤ人をアプリオリに排除した。1899年生まれのウィーン・ユダヤ人であるシュッツは、そのように「血統」を基準にして「われわれ」が「かれら」を類型化していく状況下で、彼の主観主義的社会学を提唱した。シュッツは、他の多くのウィーン・ユダヤ人同様、マイノリティの個人は自らのアイデンティティに従って集団帰属を選択できるべきだとしたのであり、そのうえで、言語を市民的生活世界に同化するための媒体だと考えた。この点でシュッツの生活世界(Lebenswelt)の概念は、ナチスの生存圏(Lebensraum)という、「異人種」の同化を許さない血統共同体への対抗理念として機能しうるものであった。


【キーワード】
ハプスブルク・オーストリア、言語ナショナリズム、日常言語、人種の疑似科学、主観主義、類型化、集団のメンバーシップ、シティズンシップ、ナショナリティ、同化ユダヤ人、包摂と排除、知識社会学、言語社会学


【目次】
1. 序文
2. 昨日の世界の終わり
   2.1. 意識の裏返し―ユダヤ人としてのシュッツ
   2.2. 言語と同化―ハプスブルク統治下のユダヤ人とドイツ語
   2.3. 異教徒から異人種へ
3. 想像されたユダヤ人―類型化と言語
   3.1. 意味問題と主観性
   3.2. 生存圏(Lebensraum)の対抗理念としての生活世界(Lebenswelt)
   3.3. 市民的生活世界の言語的構成
4. エピローグ―「われわれ」と「かれら」の時代の社会学


以上です。どうぞご笑覧いただければ幸いです。
なお後日、本稿の成立事情などについての執筆後記も、別途このブログにアップしたいと思います。



本日、本学の卒業式が実施され、今年度はゼミ参加者から3名が羽ばたきました。

ご存じのとおり、少し前にマスク解禁になったばかり。
思えば、彼らの学生生活の大半がコロナパンデミックで、拙ゼミ恒例の合宿や忘年会もできずじまいでした。多くの授業もオンラインが主でしたが、それでも腐ることなく、前向きに学生生活と授業とに取り組んでくれたと思います。

とくに正規ゼミ生2名のうち1名は、コロナ渦のなかでもヨーロッパに留学を果たし、語学力を磨き、また各国をフィールドワークして研鑽を積んで帰ってきました。また、それぞれ4万字超と8万字超もの卒論を完成させました。

これは書いてもよいと思いますが、当コースの本年度の卒業論文の単独トップも、拙ゼミから出ました。わたしの知るかぎり、本コースの卒業論文では初のビデオグラフィーによる調査であり、ルフェーブルらの空間理論や、また未邦訳の英語論文まで参照した、優れた出来映えでした。

わたし自身、このコロナパンデミックでも水準を落とさずにどうゼミ等を実施するか、腐心の連続でした。そしていまは、コロナ渦の収束と入れ替わるかのように、Chat GPTのようなオープンユースの人工知能が登場し、世界を驚かせています。個人的には、もう何年も前から、そういう技術革新の時代でも学生たちが生き抜いていける下地作りを意識的に目指してきたつもりですが、むろんゼミにかぎらず、伝わったこともあれば、伝わらなかったこともあります。コロナパンデミックで授業でのかかわりが限定された分、それがより顕著になったかもしれません。

ただ、教育というのはもともとどこかそういうもので、個々の学生たちが教員から何を学び、また何を得るかは、最終的に当人次第のところもあります。また、学んだことの何がどう役に立つかは、いまこの時点では分からないことが大きいものです。

ともあれ、送り出す側としては、やれるのはここまで。
制度的には先生がもういない今後の人生で、個々の学生たちが、大学時代にみずから得たものをもとにして、試行錯誤しながら今後の人生をたくましく生き抜いていってくれることを願います。


230325_graduation0006.jpg 230325_graduation0005.jpg 230325_graduation0004.jpg
230325_graduation0003.jpg 230325_graduation0002.jpg 230325_graduation0001.jpg