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 内側にいてもおかしいと思うものが、外側にいるとよりいっそうおかしいと分かる。日本の大学のグローバル化っていったい何なのか、である。

 わたしの(日本での)所属大学は、いわゆるスーパーグローバル大学というのに選ばれているらしく、一昨年からだったか、国際化の実績(要するに数値目標の達成状況)を把握するためという名目で、大学側から全教員らに宛てて、前年度のゼミ生の留学状況などについてアンケート依頼が来る。正直、設問におかしいところが多いと前々からうっすら思いながらも、他の仕事にかまけてチャッチャと済ませてしまっていた。

 が、ここしばらくの経験を踏まえて、あらためてはっきりおかしいと認識した。日本の大学のグローバル化とやらが一般にどういう思考回路で推進されているかは、世間も知っておいてしかるべきなので、書いておいたほうがいいだろう。別に本学にかぎった話でもあるまい(確証はまったくないが)。

 すなわち、当該アンケートの設問の種類は大きく、留学生の受け入れ状況に関するものと、こちらからの正規課程学生の海外への送り出し状況に関するものとに分けられるのだが、アンケート中、こちらからの学生の送り出し状況に関しては、「日本人学生」の状況しか尋ねられていないのである。具体的に言うと、「非日本人学生」が留学したり、海外に研究滞在したり、国際学会で発表しても、本学のグローバル化の実績としては一切カウントしないというのである。グローバル化を推進すると言いながら、これほどの矛盾はあるまい。

 そもそも「日本人学生」とは何だという大きな問題がある。
 だがこれについては、またもビックリすることに、ご丁寧にも文科省から指針のようなものがあるらしい。以下がたぶんそれである。

   スーパーグローバル大学創生支援Q&A(平成26年4月)
   https://www.jsps.go.jp/j-sgu/data/download/05_sgu_QandA.pdf

Q3-13での「『日本人学生』の定義はあるのか」という問いに対して、「日本国籍を保有し申請大学の正規課程に在籍する学生になります」との回答が示されている。

 日本国籍を保有していればただちに日本人で、保有していなければただちに日本人ではないのか、という問題はここではおいておく。そもそも実際的に大きな問題は、アンケートの回答者である教員たちは、通常、学生たちの国籍を正確には知らないということである。少なくとも私は知らない。大学の教員サイトかどこかでそれを調べることができるのかどうかさえ知らない。仮にどこかで調べることが可能だとしても、アンケートは前年度の状況に関するものであり、卒業生の国籍については分からないだろう。本人たちにメールか電話で聞くべきだろうか。だが、自己申告ではそれが本当かどうか分からない。書類を提出してもらうべきか?

 要するに、まともに考えたら誰も答えようがないアンケートなのである。
 それでも、何らかの意図で統計的な比較のために、国籍ごとに、あるいは大きく「日本国籍学生」と「外国籍学生」とに分けて集計したい、というのなら話は分かる。だがあらためて強調しておくが、アンケートでは、外国籍の学生についてはまったく尋ねすらしないのである。したがって、たとえば在日コリアンの学生が本学から交換留学しても、また、本学に数多くいる中国人の大学院生が国際学会で発表しても、それらはすべて大学のグローバル化の実績からは排除される。

 正直、グローバル化と口ではしきりに言いながらも、頭のなかは1980年代くらいで止まっているように思う。グローバル化が進めば、在籍している正規課程学生の多様性もとうぜん増すはずである。とくに大学院ではそれがとっくに顕著なのに、そうした現実がまったく考慮されていない。依然として、大学には日本人学生(日本国籍学生)しかいないという大時代的な同質性の前提で、国際化とは「日本国籍の学生をいっとき送り出すこと」ならびに「外国籍の学生をいっとき受け入れること」である、とする思考の枠組から抜け出せないらしい。実際には、海外で生まれ育った日本国籍の学生をまさに留学生として受け入れることはありうるし、また、外国籍の留学生で学部1年生から卒業論文まできっちり終えて卒業していく正規課程生はすでに珍しくない。

 前回のブログで書いた拙院ゼミの彼も、本学大学院の正規課程生であり、国際学会での発表3回、フェローとしての海外での研究滞在1回の経験があるが、彼のこうした実績は例のアンケートでは一切拾えない。それで果たして大学のグローバル化の状況を正確に把握していると言えるのだろうか。また、グローバル化の推進で外国籍学生の数が増えれば、たとえば日本国籍学生の国際学会発表数は自動的に減るが、こういう逆説はどう処理すべきだろうか。そもそも、外国籍学生の活躍を排除していったい誰が得するというのか。

 本学の学生のグローバル化状況という点でまずはいちばん重要なのは、どれくらいの学生たちが本学の名前を背負って国際的な舞台で活躍しているかであって、その学生たちの国籍はただちには関係がない。実際、上の彼は、まさに外国籍だからこそその経歴が国際学会でたいへん面白がられていた。挙げ句、ドイツの有名大学のフェローにも東アジアの大学から初めて選ばれているのだから、本学にとってはかなりの国際的な宣伝効果があり、グローバル化という点でこれほどの貢献はないはずなのだが。

 ちなみに当該アンケート、さしあたって本学独自に作られたものとのこと。で、担当者にメールで尋ねてみたが、少し間をおいて返ってきた返事によれば、在日コリアンの学生を初め外国籍学生を排除してしまうという問題は承知していたという。だが、設問の修正や加除などをするつもりはないらしい。文科省の指標に適切に対応するためらしいが……。

 わたしは当初、たんに設問が練られていないだけだと思っていたが、そうではなく、意図的だというわけである。もしかすると文科省や大学官僚の人たちは、日本の大学のグローバル化とは「日本国籍学生」のグローバル化のことであるべきである、と本気で考えているのかもしれない。だとしたらこれほどグローバル化からほど遠い思考回路はない。国籍でのそんな選別は空恐ろしい気すらする。教員はグローバル化実績に貢献するために日本国籍の学生を優遇すべきなのか?

 他方、まざまざと目に浮かぶのは、文科省にせよ大学官僚にせよ、上のようにしてグローバル化の実績から排除した外国籍の学生たちが、もし今後、いっそう大きな国際的舞台で活躍するようになったら、そのときは突如、手のひらを返したかのように「これぞ我らがグローバル化の成果!」と褒め上げて、あたかも自分たちの手柄のように言い出しそうということである。

 どこまでの内向きの、それも上級官庁やお偉いさんのような、行政組織の内部の都合にのみ目を向けたグローバル化、という気がするが、皆さんはどう思うだろうか。ひとつハッキリしているのは、どこまでもズレている、ということである。日本の大学の先行きは、あまりに暗い。


追記 2017. 06. 02
ちょうどこんな記事を見掛けました。

石原俊:なんのための大学か
【前編】政官財の愚かな圧力で、大学は想像以上にヤバいことになっている
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/51675
【後編】 日本の大学をぶっ壊した、政官財主導の「悪しきガバナンス改革」
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/51682

たぶん多くの人があまり意識しないかもしれませんが、大学がおかしくなることは、今日のまさにグローバル時代では、予想以上に大きなダメージを日本社会に、しかも中長期にわたって与えつづけると思います。


先週、ビーレフェルト大学を初めて訪れた。
ニクラス・ルーマンが教鞭をとっていたことで有名だが、わたしには「聖地巡礼」的な趣味はない。ややこしいので経緯の詳細は省くが、今回訪問したのは、わたしの大学院のゼミ生が同大学のフェローに選ばれて、博士論文の研究のために4月から滞在しており、指導上の都合でその彼に会わねばならなかったからである。なお、東アジア~東南アジアの一帯の大学からフェローに選ばれたのは、彼が初めてである。

で、2日間の滞在中、それ以外の用事はなかったのだが、初日、彼を通じて、ビーレフェルト大学ならびにフライブルク大学の社会学と歴史学の若手研究者たち十数人とラウンジで飲みながらお喋りする機会を持つことができ、それが本当に楽しい時間であった。みな気さくで、仲も良く、とても良い雰囲気であった。そして何より、彼/彼女たちのその多才ぶりと多国籍ぶりに舌を巻いた。だいたいにおいて、英語・ドイツ語を含めて最低でも3~4カ国語は使えるという人たちである。日独バイリンガル、ならびに完璧な日本語を話すドイツ人もいて、まさかビーレフェルトで、わたしのゼミ生以外に日本語を話せる人にこんなに会うとはと、予想外のことに本当に驚いた(さらに翌日、無理を言って、歴史学者の2人にはラテン語で寸劇までしてもらった。ラテン語を話す人を生まれて初めてみた)。

そして2日目は、社会システム理論と現象学の関係について、非公式ながら即興でレクチャーをすることになった。出発直前に教え子の彼からメールで、周りにそういう希望があると言われ、過去の自分の論文ファイルだけ渡したものの、それ以外は完全にノープランで適当に引き受けた。突然のことだし、何よりドイツのそれもビーレフェルトである。そんな本場で無名の日本人が社会システム理論と現象学を講じたところで、実際には誰も来ないだろうと思ったのである。が、予想に反してこれまた10人ほど集まってしまった。挙げ句、90分の予定で始めたうちの冒頭10分で、当該論文の読み上げ部分は終わってしまい、大いに困った。で、じゃあホワイトボードを使いながら説明しましょうと。その場にいる人間のなかで英語力最低という我が身を考えれば暴挙であり、いま振り返れば何を考えていたのか分からないが、前日すでに打ち解けていた気安さと、非公式という責任のなさ、何よりも、講師の下手くそな英語を忍耐強く聞いてくれる若い参加者たちの偉大なる寛容さに助けられて、質疑応答も大いに盛り上がり、結局2時間半、楽しくお喋りができた。むろん、あれを言い足りなかったとか、もっと違う表現にすればよかったとか、反省点はいろいろあるが、そういうテクニカルな点以上に、このレクチャーは、わたしとって根本的に本当に大きな意義があった。たとえ言語ないし語学力の壁があっても、柔軟で理解力のある人たちとであれば、十分な意思疎通と学術的議論が可能だという確信を与えてくれた(母語が同じでも日本人の社会学界隈の一部とはこうはいかないと思いますがどうでしょう?)。

さらに、本レクチャーの参加者のひとりである若手研究者からは、休憩中に「あるものを取ってくるからちょっと待ってて」と言われ、何だろうと思ったら自著をいただき、これもまた本当に嬉しいことであった。また、レクチャー終了後、残っていたみなで写真を撮ろうということになり(下掲)、そして食事も一緒にしようということになって、街に繰り出し、議論も続き、またも楽しい夕べとなった。

現在在籍しているベルリン工科大学もそうだが、とくに若い人たち同士の関係と雰囲気の良さというのは、当該組織や学問そのものの発展にとって本当に貴重で重要だと思う。そういうところからは、今後も大いに人材が育っていくと思う。それに対して、数値目標を設定して量を満たすことが金科玉条になったような、日本で役所の掛け声で無理矢理やっている「大学のグローバル化」では、中長期的には大した成果は出てこないように思う。質が問われるということである。

ともあれ、あまりの楽しい時間に気が緩んだのか、3日目のビーレフェルトからデュッセルドルフ・日本デーへの移動中、まさかのハプニングに遭遇した。本当に困った事態であったが、不幸中の幸いと言うべきか、ドイツで10年以上頑張っているデュッセルドルフ近郊在住のE・Aさんのおかげで、その後の日程も何とかこなすことができた。

というわけで、ビーレフェルト大学にてお会いした皆さん、ならびにE・Aさんに、この場を借りて心から深く御礼を申し上げる次第である。またお会いしましょう!

追記 以下、
1)レクチャー終了後の写真(参加者全員が写っていないのが残念!)
2)上記ビーレフェルト大学で Marius Meinhof 博士からいただいたご自著 Konstruktion und Koordination von Wissen über relevante Umwelten. Der Umgang netzwerkförmigen Volunteer Tourism Organisation mit dem kulturell Fremden.
3)少し前にベルリン工科大学の若手研究者 René Tuma 博士からいただいたご編著 Der Kommunikative Konstruktivismus bei der Arbeit.

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marius.jpg   rene.jpg


が来ました。春らしい日射しと暖かさです。
今年のドイツの春は異常だそうで、つい最近までほんと寒かった。
ときにアラレや雪がちらつくことも。

で、以下、最近の写真アラカルトです。
https://goo.gl/photos/sSLdyLhf8HAvQL4h6

じつは春らしくなる前に撮ったものがほとんどですが。
ただ、キツネや野うさぎの写真もありますから、探してください。
ベルリンはほんとうに自然が豊かです。

ヒトラー最後の場所は、いまは駐車場です。

 アマゾン・ドイツで買った本。宅配業者さんが部屋まで届けに来たらしいが、そのとき私は留守。で、その宅配の人がどうしたかというと、隣の部屋のイラン人若夫婦(旦那さんが同じ大学の工学系)に預けていった。でも、メモ書きも何も残されていなかったので、たったいまこの夫婦から手渡されて仰天。たしかにこの夫婦とは、手作りペルシア菓子をもらったり御礼にグリコのチョコポッキーをあげたりして行き来があるが、宅配の人がこうした交流を知っているわけがないので、これがベルリン特有のKiezの感覚かと思う。ただこのイラン人夫妻もさいきんドイツに来たばかりなので、思いがけない預かり物に多少困惑していたが。
 ちなみに、同じ大学の別のイラン人たち(やはり工学系)と話をしていたときのこと。不意に「お前の国では郵便って重要?」と聞かれた。そりゃあネット時代ではあるが重要だよ、しかしなんで?と聞き返すと、イランでは郵便はまったく重要ではないと言う。意味が分からず、どういうことだとさらに聞くと、手渡しだと。手渡しでいいじゃんと。郵便制度が整う前にネット時代に突入した、ということもあるかもしれない。近代化Modernisierungは複数の近代化ModernisierungENだなと思う。
 それにしても今日は、電話で大学に転送依頼した別の本がなかなか届かないので、再度電話してやり合ったばかり。郵便物と宅配物についてはすでにいろいろな目に遭っているので、だいぶ図太くなってきた。さて明日午前は、お隣のKiezの映像人類学徒(Kiezというものを教えてくれたのはこの人類学徒)と、当該Kiezの年一度の大ノミの市へ。午後からは長年の友人である日本学者とクロイツベルク再訪。

先日はメーデー。
ベルリン市内のブランデンブルク門付近とクロイツベルク(Kreuzberg)の様子。
https://goo.gl/photos/S2DGYroBxFtqpCsj9

ブランデンブルク門前にはたくさんの左派のブースが並んでいました。セクト化は万国共通のようですが、楽しいお祭りの雰囲気です。クロイツベルクも、日中はとても和やかなフェスの雰囲気です。夕方以降はご覧の通りですが。