少し前に書かれたものですが、面白い記事を目にしました。
マイナビニュース:能力の低い人ほど自信満々? 「ダニング=クルーガー効果」に要注意!
http://news.mynavi.jp/articles/2015/05/20/kara022/
デビッド・ダニングとジャスティン・クルーガーという心理学者による「メタ認知」に関する研究だそうで、それによれば、「能力の低い人は、自分の無能さを認識できず、自己を実際よりも高く評価する(ひいては自信に満ちて見える)」という認知バイアスが存在するんだそうです。考えてみれば、なるほど、能力の低さゆえに自己の能力を客観視する能力が低い、したがって自信満々というのは、紛れもない真理でしょう。
実際、こういう手合いに遭遇したことのある人は、それなりにいるのではないでしょうか。わたしにも大いに心当たりがあり、経験的に確証できます。能力の低い人ほど、まさに自分には評価する資格と能力があると言わんばかりの「上から目線」で、傲慢な物言いをするものです(表面上は謙虚さを装っていてもどこか薄気味悪い優越感や自己万能感がにじみ出る)。
困ってしまうのは、能力の低い人は、その能力の低さゆえに自分の能力を正確に把握する能力がなく、そのために自己を過大評価するというだけでなく、そこから反転して、他人を過小評価してしまうという点です。相手が真に優れた能力を持っていて、真に価値あるものを作り上げたとしても、それを自信満々にアタマごなしに否定・批判するわけです。たとえば、経験上、学術論文の査読などでは、能力の低い(=まともに論文の中身を理解できていない)査読者ほど、トンチンカンなことや間違えていることを驚くほど自信満々に言ってくる傾向があると感じています。これが笑い事でないのは、査読者と投稿者のあいだには明白な力関係があるからです。愚か者のせいで価値ある論文が日の目を見ず、これによって投稿者の研究者人生も狂わされてしまう可能性があるのです。
これに対して、ちゃんと能力のある査読者であれば、自分の読み方や知識が間違えているかもしれないという前提で、相手の論文の評価しようとするものです。当然、物言いは丁寧で謙虚になり、投稿者と目線はイーブンで、書き手の意向や意図をまずは汲もう、そのうえで掲載に値するかどうか真価を見極めよう、という姿勢になります。
人文・社会科学の学問業界の人たちは、大学受験までの「正解のあるお勉強」ではよくできましたという、ペーパーテスト優等生が少なくありません。しかし、「正解のあるお勉強」での高得点が、そのまま学問世界での能力の高さを必ずしも意味しません。むしろ学問的な能力が低かったからこそ、何の疑問も抱かずに、「正解のあるお勉強」で機械的にロボットのように決まった答えの暗記の入出力だけできた、という人もままいます。ですがこの手の人は、その能力の低さゆえに正確に自己認知できず、ペーパーテストの点数や出身校がそのまま自分の能力の高さを意味すると信じてしまい、自分の考えこそが正解だと自信満々になり、結果、他者に対しては抑圧的に振る舞います(第三者的立場からてらいもなく「キレイゴト」を言う人たちも同じようなタイプです。「キレイゴト」はなるほど一種の「正解」ですから)。
さらにワケが悪いことに、こうしたタイプの人がその自信満々さゆえに権威化し、場合によっては「取り巻き」ができてしまうことがあります。というのも、学問世界には、「なまじ能力は高いが優等生根性が抜けない」という人たちも多くいて、これらの人たちの場合、学問世界が「決まった正解のない世界」であるがゆえに、自分の能力への不安が(その能力の相対的な高さゆえに)過剰に膨らんでしまい、逆の「能力の低さゆえに声がでかい人」に引きずられてしまうからです。「声のでかい人」の仕事や業績の中身をちゃんと見極めればそんなことにはならないはずなのですが、なまじ自分の能力に自信がないばかりに、自分のほうが間違っているのではないかと、相手の肩書きや声の大きさについついつられてしまい、それらの人の言っていることが「正解」に見えてきてしまう、少なくとも、それに従っておけば安心だと感じられてくるのです。見るかぎり、「徒党」を組みたがる人たちもこれと似たような精神構造の持ち主のようです。
ちなみにわたしの見るかぎりでは、たとえばアマゾンのレビューでやたら低評価をつけている人などは、トンチンカンなことや一方的に見当違いなことを言っている(つまり能力の低い)人の割合が、相対的に高いように感じます(誤解のないように言い添えると、低評価をつけている人のなかにも、ちゃんと冷静かつ公正に厳しい評価を下してのことというケースももちろん多くあります。ですから、逆の「何でもかんでも諸手を挙げて高評価」の人は、権威に弱い「取り巻き」タイプでしょう)。ツイッターなどでも、同じような傾向が見て取れるように思います。本当に批判や批評をすべき事柄や対象ならともかく、そうでもないようなことについて「上から目線」で何かを評価したがる人は、やはり根本的なところで(下の方向に)ズレているのでしょう。だから自信満々でそんなことが平然とできるのです。気持ち悪いですが、この手の人がいなくなることはないでしょう。
ともあれ、わたしとしては、それこそ我が身を棚に上げて、「かくかくしかじかの連中は能力が低い」といった物言いはあまりしたくありませんし、ましてや、自分が完全にニュートラルですべてを公正に判断・評価できているとは決して思いませんが、学問世界であれネット世界であれ、悪貨が良貨を駆逐してしまうのであれば、大いなる損失だと言わざるをえません。
万人が脊髄反射的な意見表明のツールを手に入れた今日、こうした傾向が今後改善されるとは残念ながら思えませんが、2016年はそれでもまだ、多少は風通しのよい、まともな人のまともな意見や見解がちゃんと浸透し、また理解されていく年になればいいな、と思います。
ではみなさんよいお年を。