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直前で恐縮ですが、故・丸山定巳先生を偲んで、標記の会が次の要領で開催されます。
(※丸山先生のご逝去については、朝日読売日経など新聞各社の報道もご覧ください)

                   記
【日  時】平成27年3月28日(土)15時00分~16時30分(14時受付開始)
【場  所】熊本大学百周年記念館(熊本市黒髪2丁目39番1号)
【対  象】丸山先生にご縁のあった方
【参 加 費】無料
【申込方法】不要

わたしも発起人の末席に名前を加えていただいておりますので、上記の通りご案内申し上げます。
開催にあたっての詳細については、次のリンク先の案内文(PDF)をご覧ください。
http://www.let.kumamoto-u.ac.jp/ihs/soc/sociology/sociologysite_files/150328_maruyama-sensei-owakarekai.pdf

関連サイト
熊本大学文学部社会学研究室
熊本大学水俣病学術研究推進室
熊本大学文学部文化人類学研究室・社会連携ニュース


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2015/03/30 追記
次のとおり当日の様子の記事が出ていました。

西日本新聞:水俣病患者ら丸山さん悼む 「学生、住民に愛された」 熊本大でお別れ会 [熊本県]
2015年03月29日(最終更新 2015年03月29日 01時22分)
http://www.nishinippon.co.jp/nnp/kumamoto/article/159139

わたしは文字通りただその場にいて末席を汚させていただいただけですので、本当に恐縮だったのですが、お別れ会のあとに開催された熊大社会学教室同窓会も含めて、とてもいい会でした。丸山先生のお人柄、また関連した皆さまのご尽力の賜物であると同時に、うちのような規模と歴史と立地の大学だからこそできた、という感じで、少し昭和のかおりがしました。たぶんこういうのはもう二度と経験することはないだろうと思います。丸山先生、最後まで本当にありがとうございました。



 先日3月25日は、本学の卒業式でした。好天に恵まれ、たいへん日差しも温かく、桜もちょうどきれいに開花しており、絶好の卒業式日和でした(九州では桜は入学式ではなく卒業式のイメージを喚起させるそうです。桜=入学という図式は、ソメイヨシノ誕生の地である東京の表象でしょう)。
 本年度は当ゼミからは1人の卒業生を出しました。2年生のときに文章作成の授業を受け持った学生のうちの1人であり、そのときは、いろいろな先生のところで学びなさいと勧めておいたのですが、3年生進級時にそのままわたしのゼミを希望してきました。ですので、わたしが本学で教鞭を執り始めてこの丸3年のあいだ、ずっと彼女に教えつづけたことになります。
 ただ当人としては、ゼミでは、先輩も後輩もいたとはいえ、同期には自分しかいませんから、指導教員との距離の取り方という点ではなかなか大変なこともあったと思います。教員の言っていることやキャラクターを直接に共有できる人間がいませんから。挙げ句、昨年度は台湾で1週間の合宿もおこないましたから、良くも悪くも、なおさらかなり密度の濃い付き合いだったと言えるかもしれません。が、持ち前のガッツ、あるいは「負けん気」で、よくがんばり通したと思います。卒業論文は、東京ディズニーランドについてという、一見すると「軽め」のテーマながら、実際には、内閣府のGDP統計、厚労省の国民生活基礎調査、総務省統計局の家計調査、東京都や浦安市の人口統計といった各種統計資料を駆使し、また、当時のオリエンタルランド社長の回想録、同じくオリエンタルランドの株主向け資料にまで目配りし、さらには実際にオリエンタルランドへの聞き取りなどもおこない、当時の浦安市の都市開発やディズニーランドの誘致構想などにもスポットを当てながら、高度経済成長を経て消費社会の幕開け、バブル景気、そして今日まで続くその後の経済停滞に至るまでの、日本社会の変化を、ディズニーランドというプリズムを通して見事に浮かび上がらせました。5万字を越える作品であるとともに、文章表現も優れており、ある一節などは、2014年度中に目にしたあらゆる文章のなかでも屈指の名文で、かつての文章作成演習の担当者としても嬉しいかぎりでしたが、これはむろんわたしの手柄ではなく、一文一文を吟味しながら書き続けた彼女の努力の賜物でしょう。
 とくにこの1年のあいだは、後輩たちからの刺激も受けつつ、ずいぶん成長したという気がします。今年度はコースの主任という立場だったので、卒業証書を直接手渡せたのは感慨深いかぎりです。あらためて卒業をお祝いすると同時に、今後のいっそうの活躍を期待したいと思います。

 また本年度は、一昨年度につづいてふたたび社会調査実習を担当しました。今回は、東日本大震災と福島第一原発事故によって熊本に来られた自主避難者の方々へのインタビュー調査です。先週末にようやく報告書『「自主避難」という選択――熊本県内の震災・原発避難者の意識と実態』が完成して、卒業証書伝達式直前の午前中には、インフォーマントの方々への発送作業まで終えることができました。
 テーマがテーマだけに、いつもにも増してデータ処理などに細心の注意を払う必要があったため、データクリーニングなどの一連の仕事量が膨大に膨らみましたが、最後の編集作業まで連日連夜よくぞやり通してくれました。頑張り屋さんで責任感の強い学生たちに恵まれたと思います。分析原稿の執筆にあたっても、書いては直し、書いては直しの「産みの苦しみ」の日々が2ヶ月以上も続き、全員がたいへんな難産を経験しましたが、おたがいに切磋琢磨しながら、最終的に各自1万4千字~3万字もの原稿を書き上げて、執筆者11人で計230頁近くという、厚みのある報告書を完成させてくれました。また、再稼働を巡って議論百出中の昨年11月というタイミングに、川内原発構内を見せてもらう機会に恵まれ、薩摩川内市内も銘々フィールドワークしたのは、よい思い出です。文字通り学生たちの血と汗と涙の結晶とも言える本報告書。分析視角もそれぞれ興味深いですから、今回の震災・原発避難という現象を明らかにする一助となればと願う次第です。
 なお、本報告書は、学術研究を目的とする方にかぎり頒布しています(郵送料のみ実費をご負担いただきます)。申し込みの要領はまた別途ご案内したいと思いますので、まずはこの場を借りて、貴重なお話を聞かせてくださったインフォーマントの皆さま、また、調査を始めるにあたって多大なお力添えをいただいた皆さまに、あらためて深く御礼を申し上げるとともに、学生たちの労を心からねぎらいたいと思います。就職活動等々もありますが、残り1年の学生生活を、ぜひこれまで以上に有意義な学びの時間としてください。

追記1
ちなみに今年度の我が社会人間学コースの卒業生たちは、3年次にわたしが本コース最後の「総合演習」授業の受け持ちだったために、ほとんど担当者の趣味によってユーゴ紛争について半年間いきなり学ばされたという、数奇な運命の人たちでもありました。複雑すぎてよく分からないことが世界にあるということ、そして、ありきたりな言葉では表せない戦争の凄惨さが実感できたなら、何よりだと思います。これからはそれぞれのフィールドでぜひ頑張ってほしいと思います。

追記2
2011年度に武蔵大学社会学部社会学科で受け持った1年生の基礎ゼミのメンバーも、ついに卒業とのこと。わたしが熊本に移ってからも何度かいっしょに飲みましたし、こちらの面々についても感慨深いかぎり。月日が経つのは早いものです。さらなる飛躍を期待しています。


ゼミ追いコン ゼミ追いコン

ゼミ追いコン ゼミ追いコン

卒業証書伝達式 卒業証書伝達式

卒業証書伝達式(五高内・T先生カメラ撮影) 卒業証書伝達式(T先生ご提供)

卒業証書伝達式(五高前)  卒業証書伝達式(五高前)

調査実習(薩摩川内フィールドワーク) 調査実習(薩摩川内フィールドワーク時)

武蔵基礎ゼミ(2014年夏・学生撮影) 基礎ゼミ同窓会(2014年夏・学生撮影)


標記の論文が公刊されました。
Tada, Mitsuhiro, 2015, “From Religion to Language: The Time of National Society and the Notion of the 'Shared' in Sociological Theory,” The Annuals of Sociology (Shakaigaku Nenshi), 56: 123-154.

拙ウェブサイトから PDFファイルでダウンロードできるようにしてありますので、興味がおありの方はご笑覧ください。参考までに要約を掲載しておきます。

【Abstract】
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The aim of this article is to clarify the position of language in sociological theory, analyzing the discourses of a sociological phenomenologist of the so-called “meaning school,” notably Thomas Luckmann. Since the mid-1960s, a field called “sociology of language” has emerged as an attempt to focus on linguistic heterogeneity in society and deal with social problems such as discrimination and disparity in terms of language. In contrast, sociological theories represented by Luckmann’s sociology of knowledge conceived language to be the “social a priori” that is intersubjectively shared among people. This idea replaced the problem of understanding subjective meaning in Max Weber’s interpretative sociology with linguistic meaning. Language was regarded not as a problem but as a solution to the problem. In this sense, the view on language in sociological theory should not be called “sociology of language” but rather “linguistic sociology.”
While Talcott Parsons believed that a normative value of religion is shared in society, Luckmann pointed out that religion became privatized with the rapid industrialization after the war. Thus, for Luckmann, language assumed the role of religion: people are born into their own linguistic community, not religious community. In this way, the “shared” among people that sociological theory presumes shifted from religion to language.
However, the sharing of language was actually a product of national society, correlated to the change in the employee structure and the rise in educational standards. Hence, we are unable to naively admire common language as the life-worldly foundation. Especially in today’s global society, language is causing problems such as linguistic conflicts to reemerge. The sharing of language therefore cannot be presupposed. What we genuinely share is rather the situation that we share nothing.
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ちなみにせっかくなので、これまで PDFファイルでアップロードしておいた他の論文について、テキスト検索をかけられるようにしておきました。また、2006年公刊の論文「社会システムの理解社会学試論」も今回 PDFファイル化してダウンロードできるようにしました。あわせてご笑覧ください。

標記のとおりです。
調査報告書の項目を上にあげて少し整理しました。