テレビで衆院選の開票作業がつづいているのを横目で眺めているが、民主党が政権与党の座から滑り落ち、自民党が返り咲くことはすでに確実となった。わたしは根っからのノンポリ無党派人間であって、民主党支持者でも自民党支持者でもないが、ちょっと思うところを書いておきたい。
あらためて考え込んでしまうのは、反原発デモとの関係である。反原発デモが国会議事堂や首相官邸を取り囲んだ結果として、民主党が政権与党の座を明け渡したのは、ある意味で当然の帰結とも言える。東日本大震災と原発事故の前から民主党は支持を失いつつあったとはいえ、あの一連の大規模なデモにより、民意によって打倒されるべき存在、末期的状態との印象が決定的となった。これがとどめの一撃だったように思う。
しかしだからといって、今回の衆院選での自民党の勝利は、反原発運動にとって望ましい結果であったのだろうか。自民党、とくに現党首(=次期首相)は、明らかに原発維持派である。そもそも、もし原発事故発生当時に自民党が政権与党だったなら、その後の諸々の対応も含めて民主党よりもベターな政治がなされたのだろうか。あくまで想像だが、原発に対する自民党のこれまでの姿勢や経緯、利権やしがらみ、そしてその密室談合型の政治スタイルを考えれば、とてもそうは思えない。だとすると、一時は10万人を超える規模になった反原発デモは、けっきょく何をもたらしたのかという気がしてくる。
マックス・ヴェーバーは1919年の講演で次のように述べている。
さて、ここにおいでの諸君、十年後にもう一度この点について話し合おうではないか。残念ながら私はあれやこれやいろんな理由から、どうも悪い予感がしてならないのだが、十年後には反動の時代がとっくに始まっていて、諸君のうちの多くの人が――正直に言って私もだが――期待していたことのまずほとんどは、まさか全部でもあるまいが、少なくとも外見上たいていのものは、実現されていないであろう。――これは大いにありうることで、私はそのことを知ってくじけはしないだろうが、もちろん心の重荷にはなる――その時、私としては諸君の中で、今日自分を純粋な「心情倫理家」と感じ、今の革命という陶酔に加わっている人々が、内的な意味でどう「なっているか」、それが知りたいものである。(脇圭平訳『職業としての政治』103-104頁)
はたして、「革命」は「保守革命」に反転してしまったのだろうか。
まだ何とも言えないが、しかし、時計の針が戻ってしまった感はぬぐえない。わたしとしては、反原発デモそのものや参加した方々をくさすつもりはまったくない。また、そのときどきで人々をデモに駆り立てるだけの状況があったこともたしかであろう。そもそもデモがなくても民主党は政権を明け渡したかもしれないし、それどころか、大震災や原発事故がなくてもそうだったのかもしれない。なので、デモのせいで民主党が敗北したとは必ずしも思わない。ただあのとき、「立ち上がる市民」を理想化して、ここぞとばかりにはしゃいだ前衛気取りの向きには、懐疑の眼差しを向けざるをえない(いろいろなリスクを負いつつ勇気と覚悟と信念をもって臨んだ人は別として)。というのも、あのようなかたちで民主党政権を批判しつづければ、次の総選挙で自民党の再登板を導く可能性がますます高くなることは、ある程度予想できたからである。それとも、民主党でも自民党でもない理想的な革命的第三極が一気に台頭して、我が意に沿うかたちで「世直し」してくれるとでも思っていたのだろうか。だとすればロマン主義がすぎる。「○○にNoを!」と言い続けるのは(そのフレーズの紋切り型にはいささか食傷気味ではあるが)よいとしても、だが、結果として自分たちが何を後押ししたかはいちど考えるべきであろう。
デモのできる社会になったというのは(主に大都市にかぎった話だが)、ひとつの功績として残るかもしれない。これは中長期的にも大きな意義をもつ可能性があるとは思う。ただ昨今、反韓・反中等々を掲げる右派市民運動によるデモも同じようにおこなわれている以上、デモという手段が身近になったこと自体は、その点も込みで評価できるというのでないと欺瞞になってしまうようには思える。仮にそれはおくとしても、民主党政権を引きずり下ろした結果、デモへの締め付けの厳しい社会に逆戻りするのではないかという懸念もある。
そもそも、問題の存在を示して世論の関心を集めるという場合も含め、デモ自体は手段であって目的ではない。あの時点で再稼働等々をめぐり沸騰していたとはいえ、個人的にはあれだけの人数で取り囲むなら、最大のターゲットは、象徴的な意味が先行しがちな国会議事堂や首相官邸よりも、むしろ経団連本部や経産省、あるいは自民党本部などにしたほうが、原発問題の本丸を示すという点ではよかったのではないかと思っている。そもそも民主党は初の政権交代で経験が乏しく、内部でもゴタゴタ続きだった挙げ句に、他党はもとより省庁や財界も含めた複雑な利害政治のなかで未曾有の大災害に対応しなければならない状態だった。政権与党としての責任は重大とはいえ、そんな民主党にすべて何かをやってもらおう(それも短期間で)と期待したり批判したりするよりも、そのしがらみの相対的な少なさを有権者側が後押しして、生かさず殺さず賢く使うくらいのしたたかさがあってもよかった。3年前に民主党が政権を奪取したときの雰囲気を思い返せば、よけいにそんな気がする。
今回の衆院選の争点は原発問題にかぎられるものではなかったにせよ、いやそれだけになおさら、そのとき目に見える分かりやすいこと以外にも、もっと想像力を働かせて考えてしかるべきだったと思う。むろん、民主党政権の3年間、とくに東日本大震災発生以降の舵取りについては、今後のさらなる検証を待たなければならない。問題点はたしかにかなり多くあっただろう。いずれにせよ今回、世論は、即効性のありそうな万能薬を求めつづけた結果、ふたたび自民党を選んだ。その結果がどのようなものになるかはまだ分からない。杞憂に終わればよいとは思うが、原発問題以外にもいろいろと強烈に右旋回なおまけがついてくる。ただ、そういう選択をしたのは、われわれ有権者の側(どこに投票したのであれ、棄権したのであれ)だということは、忘れてはならない。民主党政権だってもともとわれわれの選択であった。われわれは、政治の消費者ではなく生産者である。だから、政界の側だけでなくわれわれ有権者の側の責任についても、あらためて検証が必要なように思われる。われわれの試行錯誤の過程はまだまだ続くだろうし、何より、たとえ今回の結果の副作用に苦しむことになっても、あるいはヴェーバーの予言したような「反動の時代」がやってきたとしても、それを引き受けるのはわれわれ以外にないのだから。