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 反原発デモがたいへんな盛り上がりを見せている。この件について私自身は、友人知人しかアクセスできないクローズドのSNSで散発的に呟いてきたのだが、せっかくなのでごく簡単にまとめておきたいと思う。あくまで雑感であることは断っておく。
 まずわたしとしては、原発をやめるための理路を示さずシュプレヒコールだけの反原発デモには、あまり心からはコミットできない。なるほどそれらの運動に一定の意義があることは大いに認めるし、原発などないほうがいいという思いは同じである。また、いつ大きな地震がくるかもわからない状況では、原発をやめるのは一刻も早いにこしたことはないだろう。
 しかしだからといって、危機を煽って即時廃炉か否かの二者択一を迫り、挙句に慎重さや冷静さを求める人びとには原発推進派だとレッテル貼りして罵倒するようなやり方には、賛同できない。ましてや原発立地地域の住民に悪罵を浴びせるなど論外である。また政府や東電を、その末端に至るまで一方的に叩くのも、善悪二元論の世界観で溜飲を下げているだけでけっして生産的ではないように思う。少なくとも、それで原発からの脱却が早まっているという感じはしない。
 終始脳裏をかすめるのは、それら一連の反原発デモが、ここ十年ほどのあいだ識者たちがしきりに問題視してきた「ナショナリズム」や「ポピュリズム」と根っこは同じなのではないか、という疑問である。ナショナリズムやポピュリズムそのものの善悪はさしあたって置いておく。国家という枠組と民主主義という制度のもとでは、それらは多かれ少なかれ不可避であろう。ただ、自分たちの敵対者に人びとがなびいたらそれをナショナリズムやポピュリズムと非難し、自分たちの理想どおりに動いてくれたら「民意」として称揚するのは、ご都合主義に見えてしまうのが正直なところだ。
 実際のところ、世の人びとは、識者たちのイデオロギーほど日頃から明確に右と左に分かれているわけではない。いや、識者たち自身ですらそうかもしれない。反原発デモの一定部分の人びとは、むしろこれまでの原発電力の受益者で、かつたとえ原発を止めても失うものが比較的少ない人たちではないだろうか。そうした人たちが、不安に煽られて、我が身にのみ関係する潜在的な危機に対して生活保守主義的に反応しているようにも見える。安全神話が崩れたからというよりも、我が身の絶対的な安全のための反原発であり、意識は徹底して変わっていないということである。そして、原発が止まりさえすればあとのことはさしあたって考えなくてもよいという強い立場にいるので、どこか新自由主義的な論理を展開しているのにそれと気づかない人もいるし、運動の結果について責任と覚悟があるかと言えばないであろうし、なくてもときには構わないとも思うが、ないということ自体への責任と覚悟もないだろう。
 数年前に亡くなった社会学者の藤田弘夫は、都市の権力について、農村と比較しながらたいへん含蓄のある指摘をおこなっている。少し長くなるが引用しておこう。

 官製の政治劇場である都市は、時として民衆の政治劇場に転化する。このことは、都市の民衆が農民より飢えないという先の命題と、微妙にかかわっている。都市が農村より飢えないのは第一章で論じたように、都市の存立基盤が社会的余剰に置かれていることが根幹となっている。しかしそれに直接関係するのは、あくまで都市の権力機構に属する人びとである。では、都市においては、なぜ、民衆までもが農村と比べて飢えないのだろうか。
 農業に豊凶がつきものであることは、第一章で触れた通りである。農作物の収穫は年によって、大きな幅をもっている。貧しい地方では、飢饉によって餓死にいたる人がけっして少なくない。ここで重要なことは、飢餓に際して農民のとる態度と都市民のとる態度とが、一般的に大きく異なっていることである。
 農民は飢餓に陥ると、収穫物のない農地を前にして、自分たちが長い間にわたってエネルギーを費やしてきた農作物が実を結ばなかったことに対して、あきらめの気持を抱きがちである。農民は飢饉を、とかく「自然条件」や自己が遭遇した「不運」のせいだと考えやすい。収穫がなかったことを一番よく知っているのは農作物を育ててきた農民自身である。農民に飢餓をもたらすのは、何よりも〈不作〉なのである。
 (中略)
 これに対して、都市民の飢饉に対する態度は、農民と大きく違っている。都市民は原則として、食料の生産に携わっていない。もちろん農村が飢饉に陥ると、その影響はただちに都市に及んでくる。食糧価格の騰貴は、都市民を苦しめる。とくに貧しい都市民は、飢饉にあえぎはじめる。しかし権力の拠点たる都市には、支配層に属する人たちが多く住んでいる。かれらは食生活に関するかぎり、いつもとさほど変わらぬ生活をしている。都市には膨大な食糧の備蓄があるばかりでなく、食糧を別の農村から買い込むことができる。どんな飢饉のさなかにも、都市には食糧が流入しているものである。
 そうした都市で、民衆が飢饉に追い込まれると、実のところ都市には十分な備蓄があるのだとするうわさが、どこからともなく広がっていく。都市民のなかには、食糧の運搬業者もいれば倉庫番もいる。さらに食糧不足は、誰かの陰謀や買い占めの結果かもしれなかった。事実、かれらは飢饉だといっても、罹災地の実情を知っているわけではない。食糧は、あるところにはあるものなのである。もし、都市の民衆が飢餓に陥ると、かれらのエネルギーは食糧分配機構の告発に向けられる。つまり都市の飢餓は「社会問題」となりやすいのである。人びとは「乏しきを憂えず、均しからざるを憂う」(論語)ものである。かれらは都市の権力機構や流通機構の不備を指摘するとともに、時にはそれらを「正義」の名のもとに転覆させようとすらした。窮地におよんで都市の民衆の作り出す権力は、国家にとって、いつ突き刺さるとも知れない〈喉もとの剣〉だった。したがって、国家は何としてでも、都市の住民だけは、食べさせていかなければならなかったのである。(藤田弘夫,1993,『都市の論理――権力はなぜ都市を必要とするか』中公新書,144-146頁より)


 先の7月16日(海の日)の代々木公園のデモでは、主催者発表17万人、警察発表7万5千人もの人びとが集まったそうである。だが、東京などの大都市でのデモに参加できる人というのは、いろいろな点でかぎられている。むろんその背後には、デモに賛同する「声なき声」もさらに大勢いることだろう。しかしだからといって、そうした「数の論理」をもって一連のデモにいっきに国民世論を代表させるのはちょっと待ってほしいと思う。そもそもデモの主催者発表と警察発表とではじつに10万人もの差がある。どちらが正しいのか。もしかしてどちらも正しくないのか。わたしにはもはやどっちもどっちの「大本営発表」による情報操作にも見えてしまう。その点では、何をどこまで信頼してよいのか判断に迷う。とはいえ、不定形のデモである以上、数え方に違いや差が出ることには目をつぶるべきかもしれない。だがさらに、穿った見方にはなるが次のように言うこともできる。すなわち、原発をやめようということ自体についてはすでに世論のなかでもかなり合意がとれているのに、それでも17万人程度しか動員できなかったということである。
 たとえば、既存の火力発電や太陽光発電等々で代替は可能だから原発をやめるよう主張する意見がある。だが真の問題はむしろ、代替できる可能性があってしまうことではないだろうか。生産地たる地方農村は、不満を抱えた消費地たる大都市によって、次々にポイ捨てされていくということである。原発からの脱却という思いは共有していても、そうしたことを考慮するといまひとつデモにまでは乗りきれない、という人もいるだろう。
 私としては、今回の一連の反原発デモを「革命」と呼ぶことには、その言葉の意味内容からすると誤っているように思うが、上での引用を念頭に、大都市住民中心の「市民」革命という力点の置き方をするのであれば、なるほどそのとおりかもしれない。実際それらの運動が、原発事故のあった福島県、また、同じく地震と津波で甚大な被害を被った岩手県や宮城県を置き去りにしているという意見もある。ちなみに、今回の一連のデモを1960年の安保闘争になぞらえる向きもあるようである。私自身が大学生時代に60年安保について調査したかぎりで知っている知識からすれば、それも少しズレているように感じるが、自分たちの運動を正当化するための何らかの記憶や概念がほしいということだろう。それはそれで構わないが、ごく一部をのぞいてけっきょく何も変えなかった安保闘争の瞬間的な盛り上がりを真似るよりも、原発をやめるための、場合によっては長期戦をも覚悟した理路を示してほしい。そして、もっといろんな温度差やスタンスの意見を認めてほしいと思う。
 個人的に危惧するのは、今回の一連の反原発デモにどう反応したかが、のちのち踏み絵として利用されるのではないかということである。とくに私の業界なんかだと、ある意味で「正解」は決まってしまっているようなところがある。少なくとも、そのような物言いをする人たちがいる。私からすればそれは思考の停止であって、ブルデューの言葉を借りて言うなら「業務上の過失」だと思うが、内輪の権威を盲信することが本義になっている人はたしかにいる。もう少し「賢い」人になると、それっぽいことは言いながらも、勝ち馬が決まるまでは言質を取られることは避ける振る舞いをするが、それもやはり無責任だろう。強い責任と覚悟をもって、自分の頭で考えた結果として今回の反原発デモにコミットしている人(あるいはコミットしないという人)は、私の業界内ですらごく一握りではないだろうか。
 なるほど私自身もまた、社会学者とはいえ、恥ずかしながら一連の原発問題については素人としか言いようがなく、他人を批判する資格などないことは正直に告白しておく。ただ、私たちが闘わなければならないのは、政府や東電といった目に見える分かりやすい敵よりも、また、もしかすると原発そのものですらなく、むしろ自分たちの抱える「無限という病」(デュルケム)ではないだろうか。私たちの社会は、上昇しつづける自分たちの欲望を満たすような仕組みを作り上げてきたが、それももう限界に達している。ふたつ良いことはないという前提で、どのように我が身を切れるか。
 原発の、その先が問われているように思う。


【追記】
よい本です。参考まで。

こども東北学 (よりみちパン!セ)こども東北学 (よりみちパン!セ)
(2011/11/17)
山内 明美

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この6月27日~29日にかけてイタリアのトレント大学で開催された国際社会学会・社会学理論部会の中間会議に出席し、「パーソンズのフッサール――分析的実在主義と現象学」というタイトルで、下記のとおり報告をしてきました。

Tada, Mitsuhiro, 2012, “Edmund Husserl in Talcott Parsons: Analytical Realism and Phenomenology,” International Sociological Association, RC16 Mid-term Conference: Cultures and Civilization in the Contemporary World (Trento University, Italy, June 27-29).

社会学の理論研究における「通説」に真っ向から挑む主張の報告であり、かつゴリゴリの抽象的な議論であったので、何の前置きもなくいきなり国際的なコンテクストに投げ込んで理解してもらえるか多少の心配がありましたが、聴衆からは好意的に受け止めてもらえました。とりわけ、わたしが個人的にその仕事に注目していた然るべき人物から、論証内容の正しさを強く支持してもらえたのは、大きな励みになりました。

さて、自分の報告に関して以外にも、大会全体を通じて他のセッションに参加したり、報告者とお喋りをしたりするなかで、いろいろなことが分かりました。日本とは、たしかに報告スタイルなどで諸々の違いはありますけれども、研究の状況そのものは大きくは変わりません。そうした意味では、抽象度の高い理論研究は、日本発でむしろ積極的に世界の研究のコンテクストを作っていけるのではないかという気もします。

そう思うと、日本国内でこれまでなされてきた研究できわめて高い水準にある仕事が、日本語でしか読めないために国際的には存在しないに等しいままという状況は、明らかな損失と言わざるを得ません。これはつねづね残念に感じていたことであり、何とかならないものかとあらためて思います。

国内でしか通用しなそうな衒学趣味的で肩書き頼みの仕事はさておくとして、これまで日本でなされてきたまっとうな仕事を英語に翻訳するなどして世界に発信していくという作業がなされないものかと心底思います。過去に日本語でしか書かれていないからといって、それをそのまま国内で死蔵してしまうのは、日本人研究者にとってだけでなく、社会学の世界的な研究水準の発展にとって大きな損失のはずです。

というわけで、昨今よくあるような、なんだかお金を取ってくるためだけにテーマをぶちあげたような研究であるとか、あるいは、国際化の名のもとに英語で書いたり話したり集まったりすることを自己目的化したような仕事に多額のお金を傾注するよりは、これまですでに国内でなされてきた価値ある確かな仕事を英語化(望むらくは多言語化)することに予算を割いたほうが、安上がりで、かつ日本からの研究発信という点での寄与ははるかに大きいように思います。

そんなことをあらためて思ったイタリア滞在でした。