少し個人的なことを書こうと思います。
先週3月25日、博士学位授与式に出席しました。
博士課程は、当時の社会学の院生のお決まりコースである「満退」でしたから、記念会堂でのこの授与式が、実質的に博士課程の卒業式、したがって、おそらくわたしの人生最後の卒業式でした。
とはいえ、博士の学位記自体はたんなる紙切れにすぎず、その受け渡し作業にはとくに感慨はありません。ただ、式の最中にふと、自分の座っているその席が、大学1年生のころに這いつくばっていた紛れもないその場所であることに気づきました。そこから広がるあの記念会堂の風景をまた見る機会があるなんて、考えもしていませんでした。式典が終わって数千人の卒業生たちが引き上げていくなか、角帽とマントという出で立ちで、しばし立ちすくみました。
ひょんなきっかけで入った大学でした。
それを、紆余曲折を経ながらこれほどの年月をかけて、このようなかたちで「卒業」することになるなんて、18歳のころのわたしは考えすらしていませんでした。その後、じつに十数年ぶりに訪れた無人の34号館453教室は、まるで時が止まったように何も変わっておらず、外の卒業式の喧噪とは無縁の静寂のなかに、当時の自分がいまもそこにいるようでした。希望を胸に東京に出てはきたものの、当初の入学理由はすぐに色褪せ、将来を定めきれずに何となく惰性で授業に出席しているだけの学生でした。中退を考えながらもこれといって代わりにやることが思い浮かばず、とりあえず、社会学を学ぶという副次的な目標を試してみてから中退を判断しようと決めて、東京での1年目が終わりました。世の中は、阪神・淡路大震災と地下鉄サリン事件で騒然としていました。自分も日本社会も、何かが急激に変わっていっていました。
もともと、わたしが故郷を出て東京に行くことを明確に意識したのは、小学生のころにある家族の物語を聞いたときでした。以来、上京して何かをしようとしている二十代か三十代くらいの自分の姿が、どこかでずっと脳裏にありました。いまにして思えば、博士論文を書き上げたことで、まずはひとつ、その約束を果たせたように思います。だから、新しい目標に向かって東京を離れます。
昨日は、東京タワーのふもとのその物語の舞台に、久しぶりに足を運び、東京を離れると報告してきました。けっきょくこれまでに数回しかそこを訪れることはありませんでしたが、わたしの東京生活を心のなかで支え続けてくれました。そしてそれだけでなく、これまで本当に多くの方たちが、足掻きつづけたわたしを支え、助け、背中を押してくれたことは、ここに記しておかなければなりません。これらの方々がいなければ、いまのわたしは絶対にありえません。絶対に、です。わたしはとてつもなく周囲の人びとに恵まれてきたと思います。
とくにこの2ヶ月ほどのあいだは、忙しい時期にもかかわらずたくさんの送別会をしてもらい、また、会いたかったけどなかなか会えなかった人たちとも連絡を取ったり実際に会えたりして、本当に幸せな時間でした。
いくつか東京の思い出の場所を歩いて周ることもできました。いつの間にか変わっていた場所もあるし、ぜんぜん変わっていなかった場所もあります。でも、そのどこにも、当時の自分が何かを探し求めて当てもなくさまよい歩いている姿が、ありありと見えるようでした。また、長らく行きたかったけれども行けずじまいだった場所にも、最後の最後に思いがけず訪れることができました。青空の丘の上から見える美しい景色は、はるか未来へとつながっている気がしました。その風景はずっと忘れないでしょう。
結局のところ、わたしが研究をつづけている理由は、わたしを支えてくれた多くの人たちに少しでも報いるためなのだと思います。ただ、それだけです。だからこそ、仕事の大きな節目のときに、それまでと同じ日常がつづくのではなく、生活にもひとつの区切りをつけてまったく見知らぬ土地への旅立ちの機会を与えてもらえたのは、ありがたいことだと思います。それは、わたしを助けてくれた多くの方々にあらためて感謝の気持ちを伝える機会でもありました。本当に、ありがとうございました。
いま、羽田空港でこれを書いています。
福井編、東京編が終わり、少し遅めの春一番に乗って人生は新しい舞台へ。
今後も多くの方々に助けられて生きていくでしょうが、まずはこれまでのたくさんの出会いを胸に、自分の足で立って前に進んでいこうと思います。
先週3月25日、博士学位授与式に出席しました。
博士課程は、当時の社会学の院生のお決まりコースである「満退」でしたから、記念会堂でのこの授与式が、実質的に博士課程の卒業式、したがって、おそらくわたしの人生最後の卒業式でした。
とはいえ、博士の学位記自体はたんなる紙切れにすぎず、その受け渡し作業にはとくに感慨はありません。ただ、式の最中にふと、自分の座っているその席が、大学1年生のころに這いつくばっていた紛れもないその場所であることに気づきました。そこから広がるあの記念会堂の風景をまた見る機会があるなんて、考えもしていませんでした。式典が終わって数千人の卒業生たちが引き上げていくなか、角帽とマントという出で立ちで、しばし立ちすくみました。
ひょんなきっかけで入った大学でした。
それを、紆余曲折を経ながらこれほどの年月をかけて、このようなかたちで「卒業」することになるなんて、18歳のころのわたしは考えすらしていませんでした。その後、じつに十数年ぶりに訪れた無人の34号館453教室は、まるで時が止まったように何も変わっておらず、外の卒業式の喧噪とは無縁の静寂のなかに、当時の自分がいまもそこにいるようでした。希望を胸に東京に出てはきたものの、当初の入学理由はすぐに色褪せ、将来を定めきれずに何となく惰性で授業に出席しているだけの学生でした。中退を考えながらもこれといって代わりにやることが思い浮かばず、とりあえず、社会学を学ぶという副次的な目標を試してみてから中退を判断しようと決めて、東京での1年目が終わりました。世の中は、阪神・淡路大震災と地下鉄サリン事件で騒然としていました。自分も日本社会も、何かが急激に変わっていっていました。
もともと、わたしが故郷を出て東京に行くことを明確に意識したのは、小学生のころにある家族の物語を聞いたときでした。以来、上京して何かをしようとしている二十代か三十代くらいの自分の姿が、どこかでずっと脳裏にありました。いまにして思えば、博士論文を書き上げたことで、まずはひとつ、その約束を果たせたように思います。だから、新しい目標に向かって東京を離れます。
昨日は、東京タワーのふもとのその物語の舞台に、久しぶりに足を運び、東京を離れると報告してきました。けっきょくこれまでに数回しかそこを訪れることはありませんでしたが、わたしの東京生活を心のなかで支え続けてくれました。そしてそれだけでなく、これまで本当に多くの方たちが、足掻きつづけたわたしを支え、助け、背中を押してくれたことは、ここに記しておかなければなりません。これらの方々がいなければ、いまのわたしは絶対にありえません。絶対に、です。わたしはとてつもなく周囲の人びとに恵まれてきたと思います。
とくにこの2ヶ月ほどのあいだは、忙しい時期にもかかわらずたくさんの送別会をしてもらい、また、会いたかったけどなかなか会えなかった人たちとも連絡を取ったり実際に会えたりして、本当に幸せな時間でした。
いくつか東京の思い出の場所を歩いて周ることもできました。いつの間にか変わっていた場所もあるし、ぜんぜん変わっていなかった場所もあります。でも、そのどこにも、当時の自分が何かを探し求めて当てもなくさまよい歩いている姿が、ありありと見えるようでした。また、長らく行きたかったけれども行けずじまいだった場所にも、最後の最後に思いがけず訪れることができました。青空の丘の上から見える美しい景色は、はるか未来へとつながっている気がしました。その風景はずっと忘れないでしょう。
結局のところ、わたしが研究をつづけている理由は、わたしを支えてくれた多くの人たちに少しでも報いるためなのだと思います。ただ、それだけです。だからこそ、仕事の大きな節目のときに、それまでと同じ日常がつづくのではなく、生活にもひとつの区切りをつけてまったく見知らぬ土地への旅立ちの機会を与えてもらえたのは、ありがたいことだと思います。それは、わたしを助けてくれた多くの方々にあらためて感謝の気持ちを伝える機会でもありました。本当に、ありがとうございました。
いま、羽田空港でこれを書いています。
福井編、東京編が終わり、少し遅めの春一番に乗って人生は新しい舞台へ。
今後も多くの方々に助けられて生きていくでしょうが、まずはこれまでのたくさんの出会いを胸に、自分の足で立って前に進んでいこうと思います。