明日で東北関東大震災の発生から1週間が経過しますが、依然として予断を許さない状況です。大小の余震が断続的に続き、福島原発はいまだ不安定。また、電力供給の不足による大規模停電の可能性は濃厚で、交通機関も混乱しがちです。
死者の数が万単位になることは間違いなく、平和な日常が一瞬にして暗転した犠牲者や遺族の方々、また、いまだ不安な避難生活を送る被災者の方々のことを思うと、胸が張り裂けそうです。
押し寄せる津波の映像は、ほとんど合成にしか見えないほどでした。波とともに押しては返すのが、たんなるゴミではなく多数の車であると理解し、それが現実だと信じるまでには、少し時間がかかりました。
わたしは東京にいましたが、1日だけ「避難者」になりました。
詳しくは書きませんが、危険を察知して学生たち約20人を連れて脱出、自治体と掛け合い図書館に特別に避難所を開設してもらい、そこで一夜を明かしました。被災地の方々のご苦労とは比べものにはなりませんが、電話がつながらないなかでの安否確認や、避難への決断、自治体との協議など、他の方々に支えられながら、人命第一に考えて不眠不休で動きました。
しかしながらこの過程で、これほどの事態が発生しているにもかかわらず、よそからお金をかすめとることや、自分の保身やプライドのことしか考えられないような、人として「下の下」としか言いようのない人間が少なからずいることも、はっきり分かりました。今回の場合、それは社会的には地位が高いと言われている中高年以上の人たちのなかにいました。きっとその地位を手に入れるまでにも、多くの人びとを不当に貶めてきたのでしょう。こんな人間が、若者の育英や教育のことを偉そうに口にするのであれば、おこがましいとしか言いようがありません。
マックス・ヴェーバーは『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で、こう看破しました。「……こうした文化発展の最後に現われる『末人たち』にとっては、次の言葉が真理となるのではなかろうか。『精神のない専門人、心情のない享楽人。この無のものは、人間性のかつて達したことのない段階にまですでに登りつめた、と自惚れるだろう』と」。では、この社会は、こんな自惚れた末人たちに牛耳られて終わっていくのでしょうか。
いいえ。
今回の災害を、終わりの始まりにしてはなりません。亡くなった方々のためにも、この社会は新しく変わらなければなりません。高度経済成長もバブル時代もとっくの昔に過ぎ去っています。過去の栄光をいつまでも引きずった一部の人たちが、弱い立場にいる人たちを抑圧して偉そうにのさばり続ける社会を、変えなければなりません。
今回の大地震を受けて、都内の多くの大学が卒業式の中止を決定しています。卒業予定者の皆さんにとっては大変残念ではありますが、しかし、これほどまでに皆さんひとりひとりが、大学を出るにあたって今後どのようにこの社会に寄与するのか、またどのようにこの社会を変えていくのかを、差し迫って考える必要に迫られたことは、過去にありませんでした。
まずは被災地のために、ほんの小さなことでもいいから何ができるかを考えながら、大学生活最後の日々が、卒業式の代わりにそうした本当に真剣に考えるための時間になったことの意味を、心から噛みしめてください。そして、新年度までのまだあと2週間、ゆっくり立ち止まって考えられる大学生の特権を、最後まで存分に行使してください。
そのうえで、終わりの始まりではなく終わりの終わりと始まりの始まりのために、この春より新しい一歩を踏み出してください。変えるのは、ほかの誰でもない、皆さんたち自身です。
今回の大地震で犠牲となった方々のご冥福をお祈りするとともに、避難されている方々や救助などに当たっている方々のご無事と被災地の一日も早い復興を心から願いながら、以上、この春に卒業する皆さんに寄せる言葉とします。
死者の数が万単位になることは間違いなく、平和な日常が一瞬にして暗転した犠牲者や遺族の方々、また、いまだ不安な避難生活を送る被災者の方々のことを思うと、胸が張り裂けそうです。
押し寄せる津波の映像は、ほとんど合成にしか見えないほどでした。波とともに押しては返すのが、たんなるゴミではなく多数の車であると理解し、それが現実だと信じるまでには、少し時間がかかりました。
わたしは東京にいましたが、1日だけ「避難者」になりました。
詳しくは書きませんが、危険を察知して学生たち約20人を連れて脱出、自治体と掛け合い図書館に特別に避難所を開設してもらい、そこで一夜を明かしました。被災地の方々のご苦労とは比べものにはなりませんが、電話がつながらないなかでの安否確認や、避難への決断、自治体との協議など、他の方々に支えられながら、人命第一に考えて不眠不休で動きました。
しかしながらこの過程で、これほどの事態が発生しているにもかかわらず、よそからお金をかすめとることや、自分の保身やプライドのことしか考えられないような、人として「下の下」としか言いようのない人間が少なからずいることも、はっきり分かりました。今回の場合、それは社会的には地位が高いと言われている中高年以上の人たちのなかにいました。きっとその地位を手に入れるまでにも、多くの人びとを不当に貶めてきたのでしょう。こんな人間が、若者の育英や教育のことを偉そうに口にするのであれば、おこがましいとしか言いようがありません。
マックス・ヴェーバーは『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で、こう看破しました。「……こうした文化発展の最後に現われる『末人たち』にとっては、次の言葉が真理となるのではなかろうか。『精神のない専門人、心情のない享楽人。この無のものは、人間性のかつて達したことのない段階にまですでに登りつめた、と自惚れるだろう』と」。では、この社会は、こんな自惚れた末人たちに牛耳られて終わっていくのでしょうか。
いいえ。
今回の災害を、終わりの始まりにしてはなりません。亡くなった方々のためにも、この社会は新しく変わらなければなりません。高度経済成長もバブル時代もとっくの昔に過ぎ去っています。過去の栄光をいつまでも引きずった一部の人たちが、弱い立場にいる人たちを抑圧して偉そうにのさばり続ける社会を、変えなければなりません。
今回の大地震を受けて、都内の多くの大学が卒業式の中止を決定しています。卒業予定者の皆さんにとっては大変残念ではありますが、しかし、これほどまでに皆さんひとりひとりが、大学を出るにあたって今後どのようにこの社会に寄与するのか、またどのようにこの社会を変えていくのかを、差し迫って考える必要に迫られたことは、過去にありませんでした。
まずは被災地のために、ほんの小さなことでもいいから何ができるかを考えながら、大学生活最後の日々が、卒業式の代わりにそうした本当に真剣に考えるための時間になったことの意味を、心から噛みしめてください。そして、新年度までのまだあと2週間、ゆっくり立ち止まって考えられる大学生の特権を、最後まで存分に行使してください。
そのうえで、終わりの始まりではなく終わりの終わりと始まりの始まりのために、この春より新しい一歩を踏み出してください。変えるのは、ほかの誰でもない、皆さんたち自身です。
今回の大地震で犠牲となった方々のご冥福をお祈りするとともに、避難されている方々や救助などに当たっている方々のご無事と被災地の一日も早い復興を心から願いながら、以上、この春に卒業する皆さんに寄せる言葉とします。