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イギリスの生物学者J・B・S・ホールデン(1892-1964)によれば、新しい理論が受け入れられるまでには次の4つの段階を経るんだそうです。

第1段階:こんな理論はくだらないたわごとだ。
第2段階:興味深くはあるが、ひねくれた意見だ。
第3段階:正しくはあるが、さほど重要ではない。
第4段階:私はずっとこの理論を唱えていたのだ。


さあどうでしょうか。
第3段階までが否定的な評価であったのに対して、第4段階では一気に全面肯定どころか、まるで自分の手柄にしてしまうかの勢いです。ですが、すべての段階を貫いているのは、きわめて強い権威主義です。ホールデンが皮肉っているのはおそらくそれでしょう。

新しい理論(とくにその提唱者に権威や肩書きがないばあい)に対してまず否定から入る態度は、もしかすると表向きは知的に見えるかもしれませんが、じつはもっともコストが少なく、かつもっともラクでいかなる勇気も必要としない態度です。従来の常識を覆すような新しい理論を認めるのは、それが間違いであったときに支払う代償が大きいため、とてつもない知性と、そして何よりもとてつもない勇気が必要なのです。したがって、じつは否定主義者ほど、知性も勇気もないのです。

ずっと留保をつけて否定しつづけていたのに、旗色が変わってきた(たとえば支持者の数が増えてきたとか有力者が賞賛したとか)第4段階になると、新理論のことをまるで自分がずっと主張してきたことだと言い出してしまうようなタイプの人は、本来的に学問に向かないどころか、学問の進歩を阻む権威主義者ということになります。


どこの業界でもこの手の人はいます。
そしてこの手合いの人が幅をきかせるところに未来はありません。
したがってわれわれは、この手合いの人がじつは何ひとつ進歩に貢献せず、また何ひとつ固有の意見を持ってないのを見抜かなければなりません。場合によっては、第4段階になっても周囲の雰囲気になびかずに否定的態度を貫きつづけるのであれば、その人のほうがはるかに知的に誠実なのかもしれません。


ともあれ知性の敵というのは案外こういう身近なところにいますし、あります。
みなさん自身はどうでしょうか。


断言しますが、じっさいの振る舞いとしては、ほとんどの人がこれに当てはまると思います。
自分は違うという人もいるかもしれませんが、そういうタカをくくっている人ほど、権威主義の罠にはまっているのに気づいていないだけということは、よくあります。周りは言わないだけで感づいているかもしれません。

この手の権威主義から逃れるためには絶えず自問しつづけるしかないのです。
そしてさらに、そうした自問をしつづけられる人はじつはほんのひとにぎりしかいないのだと意識しつづけることにこそ、唯一の脱出の道があるように思っています。


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またまた解題シリーズです。
本棚を整理していたら、森毅『魔術から数学へ』が出てきたのでパラパラとめくっていたのですが、その末尾、村上陽一郎「解説に代えて」が目にとまりました。専門性に拘泥しない、大胆で新鮮で生き生きした発想はいかにして生まれ育つか、という一文です。それによれば条件は次の5つ。


1)その分野のなかで既存の蓄積されたデータとデータのあいだの隙間を埋めることに力点を置かない。隙間があってもそのあいだをデータにこだわらずに架橋すること。

2)読まなくてもよいと直観の教える資料は大胆に省略すること。

3)信頼が置けると思われる二次資料はじゅうぶんに活用する。逆に、権威あるものとして専門家世界では評価が定まっている二次資料でも、こだわらずに取捨選択すること。

4)普通は専門家が直接関連がない(イリリヴァント)だとして手を出さない、当該領域外の分野にまで視野をつねに広くとり、柔軟なスタンスに立って深い奥行きと幅広い見通しを持つこと。

5)資料のなかに現れる人間に自分の血肉を分け与えること。


科学史家の村上は、本来は数学者である(したがって科学史の門外漢である)森のこの科学史的著作を肯定的に評価して上のようなことを述べたわけですが、もちろん村上自身が言うように、たんなるホラになることなくそれらの条件を満たすのは存外に難しいものです。当該分野の専門家にすら難しい。村上は、むしろ専門性に埋没して決められたレールのうえをただひたすら前へ前へと歩きつづけるだけのほうがはるかにラクだと言っていますが、そのとおりでしょう。

学問の世界でも、人文・社会科学系のとくに思想や理論のかかった分野では、専門家たちのなかでもホラ派かレール派かに大別されるように見えます。これに対して、本当に傑出した仕事というのは、ホラではないのに大胆で、かつレールに乗っていないのに厳密だという、この絶妙なバランスのうえに成立しているものです。そしてそれが可能になるのは、個人的資質はもとより、周囲の環境や雰囲気によるところもかなり大きいと思います。大胆な思考を許容しない環境や、逆に厳密さとは縁遠い適当すぎる雰囲気では、本当に素晴らしいものは生まれません。

だとすると、いまの社会学の世界はそうした傑出した仕事を生み出すような環境かどうかというのは、社会学者たち自身が一考すべき問題です。社会学者であればなおさらのこと、価値ある科学的業績の生まれる社会的な背景や条件には気を配るべきなのですから。


  
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