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前々回に続いて、大塚久雄の「創造の過程と成果」という講演での言葉を、書き留めておきたいと思います(大塚久雄『国民経済』(講談社学術文庫)末尾の中村勝巳「解題」より)。


「中心にどんな偉い研究者がいるにしても、結局自分の仲間だけで通用するような隠語みたいな用語ばかりで話すこと」になり、「その隠語を周辺の人々に押しつけ、それを皆で宣伝するというようなことをやりますと、一見学問の隆盛であるかのような印象を与えますが、これはおそらく似て非なるもので、やがて衰退が訪れるにちがいないと思います。とにかくそう意味で、学問的創造を促すにはさまざまな専門、異なった学説をもった人々がグループを作るのがよい、というのが私の考えです」

「しかし、私は、やはりそこにはなお限界があるように思います。それは、学問における創造、いや、およそ創造的行為は、……すぐれて個人的な性質をもっているからです。個人の内面は深い底をもっており、その奥底で経験されるあの苦しみと深く結びついているからです。ですから、学問的創造を促進するためのグループなり組織なりは、その内部で個人の自由を十二分に許容するようなものでなければならないでしょう。蚕に糸をはかせるようなやり方ではとうてい成功しえないと思います」


一見隆盛しているように見える学問上のグループや組織や集団が、知識社会学的にじっさいにはどういう構造になっているのか調べてみるのは面白いかもしれません。そしてその未来も。

いずれにせよ、職業として学問にたずさわるかぎり、蚕に糸をはかせる側にも、蚕として糸をはかせられる側にも、なってはならないと感じています。


都心部で目の前をリスが横切った。信じられない。

本年度担当した文献講読の授業では、マルクス『資本論』とヴェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を読みました。受講者数30名ちょっとと、この手の授業にしてはやや多い人数でしたが、頭を悩ませおたがい助け合いながら、この1年間のあいだにいろんな知識や物の見方を身につけ、社会学の学生として成長していく様子がはっきりと分かり、嬉しいかぎりです。わたし自身も彼/彼女たちの意見や解釈を聞くなかで、あらためてこれらの著作の奥深さに気づかされて、たいへん実りの多い授業でした。もとより受講生たちには個性的な面々がそろっており、仲も良く、ときに四方八方へと話題が脱線しながら、つねに笑いの絶えない楽しい時間になりました。

激動の時代ですが、だからこそ社会学を学んだ若者たちのなかから、世の中を複眼的に見ることができ、またそれぞれのフィールドで世の中を変えることのできる「革命家」が出てきてくれることを、切に願うばかりです。

みなさんまた飲みましょう。
残る大学生活をより充実したものにしてください。


久しぶりに、大塚久雄『国民経済』(講談社学術文庫)をパラパラと見返したのですが、末尾の中村勝巳「解題」に、大塚の「創造の過程と成果」という1970年の学部学生・大学院生・若手研究者向けの講演記録(『著作集』第12巻所収)から次のような引用がありました。感ずるところがあったので、書き留めておきたいと思います。


すなわち学問的創造の「そうした苦しみはそもそも万人と分かちあえるような性質のものではないのです。つまり、創造する人間は十字架の人であるほかはないと思います。自分が苦しんで、そして、その成果を人々が享受する、そう言う一面を学問における創造もまたもっている、と思うのです」。

「ヴェーバーが、カリスマという新しい、画期的な着想を獲得するその背景には、その不可欠な要素として彼の大変な苦しみがあった、ということはまず間違いないところでしょう。しかし、いまわれわれは、自分はそういう苦しみを経験することなしに、その理論を享受している」。

「彼が苦しみに耐えに耐えて作りだしたその成果は、人々の目にはしばしばなんでもない当り前のこととなってしまうのです。ですから、何だ、当り前のことじゃないかという批評はしばしば、実質的には、大きな讃辞ともなっている、ということも忘れるべきではないと思います」。


みなさんどうでしょうか。
たしかに学問をやっていると、ある学問的成果(それが公刊されているものであれ未公刊のものであれ)に対して「当たり前のことじゃないか」という批評を、ときどき耳にします。これがじつは「大きな讃辞」と見なせるというのは大塚久雄の慧眼だと思います。

そしてこれはまた、そうした批評をしばしばしてしまうタイプの人はじつは学問的創造の苦しみをまともに経験していない人だ、ということを含意しています。じっさい、学問的創造の苦しみを経験せずにあちこちから思想の断片を借りてきて、それらを根拠もなくつなぎあわせて偽物の「新しさ」や珍奇な概念の構築に汲々としている人が、この界隈にはけっして少なくないように思います。きっと大塚久雄の時代にもその手合いがいたのでしょう。だからこそ、真剣に創造に苦しむ若手たちがそういう人たちに挫かれないよう、励まそうとしたのではないでしょうか。

ただし、職業としての学問の精神からはほど遠いそうした手合いが批評する立場にたつことがあまりに多くなると、もう「大きな賛辞」だと言っているだけでは済まされません。悪貨が良貨を駆逐してしまうからです。

だとすると、学問の世界でほんとうに必要なのは、批評そのものよりも、批評の批評であるように思います。少なくとも、自分の批評は誤っている可能性がある、という反省(自己観察)がつねに必要です。そして、実際にそれができる人がこの界隈に何割くらいいるのかということは、いちど調べてみる価値がありそうです。

学問的創造の苦しみをともなわない批評(評価行為全般)は、ただ無用であるだけでなくときに有害ですらあることは、研究者ならば心にとめておくべきだと感じています。

たまたま読売新聞社前でのゴールシーンを生で見ることができました。総合V2達成の東洋大学おめでとう。

年も改まりました。
また気分を新たに1年間を過ごしたいと思います。

本サイトはそんなに頻繁には更新しませんが、それでも昨年5月にふと思い立って開設して以来、けっこういろんな方が覗いてくださっているそうで、顔を合わせたときなんかに声を掛けてもらっています。ジリ貧化する大学業界や社会学の現状に対する所見に、共感してくださっている方が多くおり、心強く感じています。

この十年ほどで世の中はあまりにいろんなことが急激に変わりましたが、自分は自分のペースで、やれることをやっていこうと思います。どうぞみなさま本年も何卒よろしくお願い申し上げます。